うたごえ・うたごえ喫茶・うたごえ運動・労働歌…

ロシア民謡 おけら歌集 とっぷ

うたごえとうたごえ喫茶
青野 宏…うたごえ喫茶ヒット集(現代芸術社昭和38/04/01発行より抜粋)
■初期のうたごえ■((うたごえ運動とうたごえの起り)
 ここ2・3年来、急激にクローズ・アッブされてきたうたごえと、そのうたごえ喫茶との関係について、ここにいくつかの角度からの分折を加えたい。
 まず「うたごえ」とはいつ頃、どうして起ったものか、又、うたごえ喫茶の今日の繁昌はいかにして始まったのであろうか。うたごえの歴史はまずうたごえ運動にまでさかのぽる。
 1948年2月、関鑑子が自分の家を解放して、みんなでうたえる歌をうたおうという集リをもったことからはじまり、同じ年の5月のメーデーに、はじめてみんなの注目をあつめることとなった。したがって、一般にいわれるような政治的思想や政治的運動のための宣伝の手段とは、発生当時は無関係であったといえる。
 これについて、うたごえ運動のリーダーの関鑑子が次のようにのべているのでも明らかであろう。
 「私は歌のお店やさんなのです。よい歌を安く、だれでも歌える歌をみなさんにお売りしている一人にすぎないのです。………私は芸術家てあっても政党人や政治家ではありません。」(30年1月21日、NHK放送討論会)

 しかし、後に述べるようにうたごえが歌詞の内容を伝えることを主な特徴とするという音楽的特質との関係もあって、初期のうたごえでは、これが政治的宣伝に利用される機運が強かったようである。
 地域のサークルや職場の団体など、仲間集団に支えられてうたごえは拡がったのであるが、逆にまた、うたごえ運動を動機に発足した集団も少なくなかったのである。うたごえに支えられて形成された集団というものは、事実、十数年前には我々の身辺に枚挙にいとまない程あったのである。
 これらは、ただ何となく自分達の歌をうたおうという素朴な動機からであったが、これを統一的に操作して、一部の政治的思想を意図的に宣伝普及するべく利用される機運が一時たいへん強かった。

 これを「革命への原動力」(当時のある運動家の話)と呼ぶほど、かなりラディカルなねらいがあったようであるが、うたごえが東京近郊から地方へと浸透していくうちに、その政治色は拡散してゆき、うたごえ運動の統一性までも喪失してしまったのである。
 こんにちでは「中央合唱団」が名目上残存する程度であって、いまの「うたごえ」の流行に関して果す役割はほとんどもっていない。そして今のうたごえとは、東京新宿・池袋のいくつかの「うたごえ喫茶」を中心に、そこに集う常連によって支えられるものだ、というわけである。
 このように、初期のうたごえ運動と、今日のうたごえとは、流行の仕方において、また音楽的特質においても、たがいに不連続なものであるというぺきである。

 話は別だが、あれ程あそこここにうたごえによって結ばれた人々のサークルが生れていったにもかかわらず、一部の政治運動家の意図する方向へ、うたごえ運動が向わなかったのはどうしてであろう。
 これは、急激に増加したうたごえのサークルが、次第にそれぞれ独自の方向感覚をもって安定したものとなっていった場合、これを一方的に操作しようという全体主義的な方法は、むしろ不都合となるのが当然のことといえるのではないだろうか。
 しかし、そんなこととは全く別に、うたごえ運動に伴って、一般の人々が自分たち自身で生活に歌をとリ入れようとする習慣が広まっていったことに、大きな意義を見るぺきであろう。

  
うたごえ喫茶と今のうたごえ
 下にあげるのは今日のうたごえの流行において大きな役割をはたしている東京都内の主なうたごえ喫茶である。
 
どん底 新宿区新宿2-55
灯・第一 新宿区歌舞伎町26
灯・第二 新宿区歌舞伎町12
カチューシャ・東店 新宿区歌舞伎町14
カチューシャ・西店 新宿区歌舞伎町23
山小屋 豊島区池袋東1-97
マキバ 渋谷区宇田川町80
 
 うたごえ喫茶なるものがはじめて現れたのは昭和25年の新宿である。さきにあげた「どん底」(現在は「うたごえバー)にきた或る男の客が歌をくちずさむうち、段々とほかの客がそれに合わせて歌いはじめ、やがて店内一杯にひろがる合唱となった。こうしたことが幾日か続くうち、これに目をつけた店の経営者によって歌声指導を専門とするうたい手を置いて、うたの歌詞ののせられた刷りものを配り、うたごえ喫茶店とした。
 これがうたごえ喫茶のはじまりだと言われるが、このことは初期のうたごえ運動の合唱の発生が、デモの帰途の車中等々で、このような自然発生的な形でおこるのを常とすることから、大いにうなづけるものと考えられる。
 うたごえ喫茶に集う常連たちは、今日でも、ただ単に店のタレントの演奏やうたを聴くだけでなく、積極的にすぎる程の、一種独特な態度で合唱に参加するのである。リクエストは一人で20曲やそこら出すのは当りまえで、はては司会者をやじったリ、自ら作ったコーラスのハーモニーらしきものを、皆のうたうのに合せて、これ見よがしに大声てきかせたり………。
 とにかくうたごえ喫茶に常連として通ううちに、勤務中の本職を放棄して、その店の歌唱指導のタレントに転向したという御仁までいるのを見ても、いかに積極的な態度で合唱に参加しているかが明らかであろう。「うたわなければ居られない」という、異常なまでに熱心なさまで、一晩中ねばるお客たちがここでうたうレパートリーからは、すでに「北上河原の初恋」などの、ラジオやテレビでヒットした曲も生れている。
 ただ、面白いことには、一般にマス・コミにとりあげられる頃には、うたごえ喫茶での流行は下火になるのが普通である。マス・メディアを通じて流される歌が、自分達のつくりだしたその曲の持つ味わいとかけ離れたものになるのに、抵抗を感ずるゆえであろうか、とにかくめっきりとリクエストの回数がが減るのだそうである。

ケース・ヒストリー
 では一体うたごえとは具体的にいかなる音楽をいうのであろうか。うたごえと普通の流行唄とは、レバートリーや音楽的特徴がどうちがうのであろうか。
 音楽的水準の高低はともかくとして、我々は次にあげる『雪山讃歌』という歌のおいたちを見るとき、ひとつの音楽のジャンルとしてほかの流行歌や軽音楽などと区別されるべきものとして「うたごえ」をとらえることができるのである。(譜面参照)

 譜面Aは現在うたごえで歌われている『雪山讃歌』であるが、これはアメり力の西部民謡(ウェスタン)としてうたわれているもの(譜面B)と同一のメロディーである。ところが歌詞の相違はともかく、音楽的特徴まで大分ちがいが認められる。このことはその歌をささえてきた集団が、わが国において全く別々であったことを示していて、大変興昧深い。

 譜面Aの曲は「みどりの歌集」(飯塚書店発行)のなかで、はじめてうたごえ系のサークルのあいだに紹介され、うたごえサークルを中心にひろまっていった。一方の映画「荒野の決斗」でも一般に知られ、いち早くマス・コミに乗った譜面Bとは、はじめのうちまったく無関係な歴史を辿ったのである。つまりメロディーや和音までちがうのである。
 昭和30年春から暮ごろまでは、どこのサークルでも大体Bのような、小節区分を無視した唱法が行われた。その頃には、原譜の通りにうたう「読譜力のある」人々の旋律とが共存していたのである。昭和31年ころまでには、大体ほとんどのサークルの歌い方が、Aのように訂正されるにいたった。

 Bのカッコ内の音符は、輪唱形式でコーラスされるもので、大いに仲間意識をたかめるのに役立っていたが、聴く人の側にすれば、小節区分を逸脱するため、粗野な、洗練されない印象をあたえるもので、あまり高級とはいい難い。こうしたことは、ほかに見られない「うたごえ」のほほえましい特徴の一つである、
 またBに示すのはこの曲の伴奏に長い間用いられた演奏法で、(今日でもこの歌い方は残る)アーフタクトを含まないため、一拍目に強いアクセントが置かれた。しかし現在では、「いとしのクレメンタイン」と同じように、物語風なアクセントのおきかたがとりいれられている。

 ところで、最もも大きな両者の特徴の差違は和音にある。第3小節〜7小節、第10小節〜11小節については、譜面の記号にある通りであるが、特に四度進行の使用の上に短
九度の和音(10小節目)の使用によって悲壮な印象をきく人に与える。
 技術上の説明をしすぎたようであるが、話はもとにもどって、とにかく「雪山讃歌」が暗い印象の曲であるのに対して、「いとしのクレメンタイン」は、やわらかい、明るい味わいの曲であるといえる。とにかくまるでちがった感じで、それぞれ別の扱いがなされている歌といわなければならない。

 一説によれば二つの曲は元来同一で、イギリスの古い民謡であったものが、雪山讃歌ははドイツに入って山岳の歌として歌われ、そののち共産圏の国々をまわって栄え、そのルートから日本に入った。しかるに『いとしのクレメンタイン』は、人々の移住とともにアメリカに人り、開拓者に歌いつがれて民謡として定着し、それがウェスタン・ソングとして、我国に入ったものであるとされている。この真実性はともかく、面白い見方だと言えよう。

うたごえの特質
 うたごえの特質として、まずその音域が非常に狭い点をあげなければならない。初期のもので、今日までの淘汰に耐えて来た「たうたごえ」をしらべてみると、ここでは、個々の曲目についての説明は割愛するが、20曲中約半分までは低いCから高いEbまでの十度の音域をもつものである。(トロイカエルベ河死んだ女の子灯(ともしび)われらの仲間等々)これは西洋音楽でいうバりトン音域(G〜F十四度)よりもさらに四度せまい音域である。
 そればかりか、普通うたわれている歌謡曲の音域よりも狭いのであるから、うたごえの大衆性はこのことだけからもうなづける。ちなみに、昭和初期に大流行を見せた古賀政男、万城目正らの作品は普通十三度(A〜F)であったのをみても明らかである。
 だから、いかにうたごえとして愛されるメロディーをもっていても、音域がこのように極度に狭いものでないと、長く支持されない。芥川也寸志氏の作品『祖国の山河に』(Eb長調、D〜G十三度)は、今日のうたごえ喫茶でこなすには幾分高級すぎるとでもいうべきであろうか。昭和36年にうたごえに編入されて、すばらしい人気を持続するかにみえていた曲だけに、その後一般に忘れられていった原因として、私は音域に難があったと解釈するものである、、

 最後にぜひあげねばならないうたごえの特質は、その唱法が「叙述的性格」が濃いことである。
 一体歌曲の唱法には東西をとわず、こうした歌詞のもつ意味をよく伝えるのを、主な特徴とした「叙述的」なものと歌詞を無視するものではないが、音楽としての音の変化、つまり歌唱そのもののかもしだす音楽的性質、すなわち歌謡性(カンタービレ的性格)に鑑賞の重点をおくものとがある。
 うたごえは、いうまでもなく前者「叙述的性格」である。すなわち、【音楽性よりもむしろ言葉によって】仲間の連帯感をたかめる役割をもつのである。

 旋律について述べたから、リズムについて簡単にふれておく。初期のうたごえは、ほとんどすぺて二拍子系のうたが多いことと、それが今日では少しずつ、三拍子系が編人されてきたということである。(北上河原の初恋6/8拍子、山のロザリア3/4拍子、いつかある日3/4拍子、シーハイルの唄3/4拍子、アムール川のさざ波3/4拍子など)
 これは初期のうたごえがデモ行進などと無関係でなかったこと、いまのうたごえでは単に歌って楽しむという方向にむかっていることとの関連を示しているといえよう。
 ともあれ、私はこれらの分析を通じて、音楽的にうたごえというジャンルをもって他の流行歌と、区別されるべき独自性をたもっていく限り、うたごえが自らの歴史を失ってしまわない限り、うたごえ喫茶の繁昌とうたごえとの閑係はつづき、喫茶店の繁昌も持続するものと考えるものである。

うたごえ運動
 うたごえ運動は1960年代に日本でピークを迎えた、合唱を中心とする社会運動である。合唱を団結の手段とするもので、労働歌・反戦歌および日本やソビエトの民謡をレパートリーとして、大規模な創作活動でもあった。社会運動であると同時に音楽運動でもあるという特異な性格を持っていたことになる。職場や学生のサークル、当時流行した歌声喫茶などを拠点に全国的な流行を見た。

うたごえ運動の提唱
 うたごえ運動は1948年に関鑑子(せき あきこ)によって提唱された。この年、関は民青の前身、青共の音楽部門である中央合唱団を設立し、指導者となった。以後、この中央合唱団がうたごえ運動を広める中心的存在となっていく。この合唱団は、共産主義の思想を活動家のものから大衆へと浸透させていく役割を担っていた。
 運動が最盛期を迎えたのは、大衆運動が盛り上がった1960年代であり、1964年の第1回全国学生うたごえ祭典がピークであったとされる。
 発展を担ったのは職場および学生のサークルである。ただし、うたごえ運動の目指すものは通常の音楽とは異なり政治的なメッセージ性の強いものであったため、芸術か政治かの方針の対立で分裂に至ったサークルも枚挙にいとまがない。

 
歌声喫茶の流行
 大衆への浸透という意味で大きな働きをもっていたのが歌声喫茶の流行である。1955年に新宿で開店したカチューシャ、翌1956年にやはり新宿で開店した灯などに始まり、歌声喫茶は全国へ広がった。

 うたごえ運動は、1970年代以降大衆の連帯という気運が弱まることで衰退する。しかし運動自体は継続されており、「日本のうたごえ祭典」が毎年開催されている。

うたごえ運動とポピュラー音楽
 創作を活動の源泉とするうたごえ運動であるが、荒木栄などが活躍している頃には自分たちの以外の音楽ジャンルについて、 ジャズやポップスはアメリカ帝国主義の日本への文化侵略、演歌や歌謡曲は単なる大衆迎合などと真面目に内部で決め付けていた。

 70年代になって安保闘争など左翼の大衆運動が衰退すると、今度はポップスを研究して新しい傾向の創作を始める。 しかしそれも中途半端で、国鉄を守る中で生まれた「俺たちのシルクロード」などは、宇宙戦艦ヤマトの2番煎じのメロディー そのものである。
 実際アニメソングを知らない外国人に試しに両者を聞かせてみると、両者を明確に区別できない事がはっきり分かる。 かつて荒木栄の曲は軍歌に影響された部分もあるとの批判があったが、最近のうたごえ創作曲も同じように戦闘的アニメソングや CMソングに少なからず影響されている。
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青春歌唱としてのうたごえ運動
 「うたごえ」はかって栄え、そして今はもう衰えたものとしてとらえられる向きが多い。たしかに、「うたごえ」運動が生み広めた歌の数々を、青春の共通の愛唱歌としてもっていた世代にとって、それは現在の実感といえるだろう。もう少し上の世代が、共通の愛唱歌として軍歌をもっていたように、「うたごえ」の歌が共通の青春の想い出につながる世代がある。しかし、はたして「うたごえ」の流れをみることは、遠い日に埋めてきた青春の墓標を訪ねることに過ぎないだろうか。ここではいまもなお「うたごえ」を押し進めている人たちのなかに立って、これらの歌をふり返ってみることにする。

うたごえの誕生
 1948(昭和25)二月、中央合唱団が「うたごえ」の中核として誕生した。「音楽の力というものは非常に大きいものです。百万遍の演説よりも、時にはもっと大きい力を発揮します。 …中央合唱団を作る時、一人の声楽家が持つ力じゃなくて、合唱の持つ力、しかも労働者であるみんなの心の声というものの魅力に多大の期待を持ちました。」(関鑑子 1971年中央含唱団総会で)

 こうして一人の音楽家のすぐれた才能と熱意は、若い労働者たちの心と結びついた。それが世界に例を見ない ”日本の「うたごえ」運動”のスタートだった。”うたごえは平和の力”を合言葉に『若者よ』(昭23)、『カチューシャ』(昭23)、『バイカル湖のほとり』(昭23)、『仕事の歌』(昭28)などのうち一曲覚えたら、中央合唱団員はそのただ一曲をもって、労働者の中へ飛ぴこんで行った。朝鮮戦争の勃発を機に、日本の民主主義の進路はふたたび大きな危機に直面していた。レッド・パージの嵐が吹きまくる中で、運動動は困難をきわめた。工場の中へ入れてもらえなくて、労働老が仕事を終えて入浴するそのお風呂の外、金網ごしに声を限りに歌ったこともあったという。『うたごえ』のきびしい創成の時期である。しかし、そういう時代だけに、『うたごえ』は熱い共感をもって若者の胸に受けとめられた。この時期の歌には『我等の仲間』(仲間にはいい娘がたくさん働いている …以下省略…昭23)、『バルカンの星の下に』(黒き瞳いずこ …以下省略 … 昭24)、『舟のり』(かもめマストに低く …以下省略… 昭24)などのロシア民謡、ソビエト歌曲、『おおスザンナ』『草競馬』『もういやだ』(くらくさびしいその数々 …以下省略… )などのフォスターの歌があった。

うたごえの発展と昂揚
 1950年代にはいると、激動の中から「うたごえ」は数々の愛唱歌を生んでゆく。
 レッド・パージのたたかいの中から生まれた『民族独立行動隊』(民族の自由を守れ …以下省略… 昭28)、内灘、妙義の基地闘争の中で生まれた『心の歌』(ふるさとの山を見よ …以下省略… 昭28)、『母なる故郷(母なる故郷よ …以下省略… 昭29)などがある。
 一方、芥川也寸志、林光、清瀬保二などの作曲家が運動に加わった。『仲間たち』(仲問たちがみんなで集まる時は …以下省略…昭28)、関忠亮の『美しき祖国のために』(広々とした海 …以下省略… 昭28)なども次々に歌い広められた。特に専売女工の詩に芥川也寸志が曲をつけた、『祖国の山河に』(昭28)は労働者と専門家の結合の一つの典型といわれた歌であった。学生の間では『全世界民主青年の歌』(我ら青年 …以下省略… 昭27)などが歌われた。五木寛之は、そのエッセイ集「風に吹かれて」の中で一九五二年当時の学園のうたごえを次のように描いている。
 「上京して間もなくメーデー事件が起った。続いて早大事件にぷつかった。『国際学連の歌』はその頃に覚えた。ほかにも続々と新しいレパートリーが増えた。『憎しみのるつぼに赤くやくる…』という革命歌は、当時の陰惨な文学部地下のせまい部屋によく似合った。生協の売店で煙草を一本何円かでバラ売つしていた時代である。『若き親衛隊』『シベリア物語』などのソ連映画が大学で人気を集めていた。当時の私たちのナンバーは『シベリア大地の歌」であり『バルカンの星の下に』だった。気のきいた連中はそれをロシア語で歌った。学内では”自由舞台”や”劇研”などが、活発な活動を続けていた。東京中の大学が一種の昂揚期、または躁状態にあった時期だったように思う」

 激動の中で世界の重みを両肩に感じ始めていた若い心、孤独と連帯の問をゆれ動いていた心に、「うたごえ」は抗しがたい力を持っていた。そして折から、全国民的な規模で高まって行く平和運動、とりわけ原水爆禁止運動の中で、「うたごえ」はまさに飛躍的な発展を示した。1954年から、56年にかけて、この時代こそはまさに「うたごえ」の青春と呼ばれるべき時代であろう。全国の職場、地域に無数のうたごえサークルが生まれ、主要な労働組合のほとんどが、その文化活動の中心を「うたごえ」におき始めていた。「うたごえ」人口は、2百万を越えると推定され、それを証明するかのような青年歌集の売れ行きが、かくれたベストセラーとしてマスコミに大きく取り上げられた。
 雑誌「知性」が、「うたごえ」特集号を出し、NHK放送討論会が「うたごえ」運動をいかに考えるかをテーマに取り上げた時代である。そして、1955年の暮には関鑑子のレーニン平和賞受賞(一当時スターリン賞)、が発表された。いわゆるうたごえ喫茶が各地に生まれたのもこの頃である。それだけに、共通の青春歌として思い出されるものも非常に多い。『原爆を許すまじ』(昭29)、『しあわせの歌』(昭30)、『おお牧場はみどり』(昭30)、『しゃれこうべと大砲』(昭28)、『シュワジュベチカ』(昭30)のほか『東京ー北京』(アジアの兄弟よ …以下省略… 昭30)や『東京ーモスクワ』(森のみどり豊かに …以下省略… 昭31)、『死んだ女の子』(扉をたたくのは私 …以下省略… 昭31)、『砂川』(昭31)、『桑畑』(昭33)などが、日中、日ソ国交回復、原水爆禁止、基地反対など、その時々のたたかいの内容を反映している。そして『原爆を許すまじ』と並んで今なおたたかいの象徴として歌われつづける『沖縄を返せ』(昭29)もこの時期に生まれた歌の一つである。
固き土を破りて 民族の怒りに燃ゆる島 沖縄よ
我らと我らの祖先が 血と汗をもて 守り育てた沖縄よ
  ■我らはさけぷ沖縄よ
  ■我らのものだ沖縄は 沖縄を返せ 沖縄を返せ
『沖縄を返せ』(全司法福岡地裁支部詞・荒木栄作曲)
 外国の歌では、ロシア民謡、ソビエト歌曲『泉のほとり』(昭和26)、『エルベ河』(ふるさとの声が聞こえる …以下省略… 昭22)、そして『ジグーリ』(昭23)、モスクワ放送のコールサインだった『祖国の歌』(昭23)、『ステンカ・ラージン』、『収穫の歌』(昭29)、『ぐみの木』(昭28)、『川岸のベンチで』(昭29)など、創成期からの歌がやはり主流を占める一方、『トラジ』、『畠へ行こう』(昭29)などの朝鮮民謡や『草原情歌』(はるかはなれた …以下省略… 昭29)、『戦車兵とトラクター手』(昭29)などの中国の歌、『おお牧場はみどり』『シュワジュベチカ』『さらば恋人よ』『アバンティ・ポポロ』(昭29)などに代表されるヨーロッパの曲、民謡など、レパートリーは広がっていった。1955年の夏に発表された『世界の青春』が、その年のうちに日本中に広まったのも、当時の「うたごえ」運動の力を物語っている。
進め我ら若者 世界の子らよ娘よ 心あわせ新しい 世界作るため
歌え我ら若者 数知れない兄弟よ 腕固く呼びかけ ひぴかせつつ
進む我らの歌 世界の青春 団結のうたごえは 力にあふれて
高くひぴきわたり 絶える時もなし 聞くもの歌うもの 友情を固めつつ
  ■遠くひぴかせよう 我らの歌声を
『世界の青春』(ルフリエーフ詞、合唱団自樺訳詞、アレク・サンドロフ作曲)
停滞と混乱から第二の昂揚期へ
 きびしく暗い情勢の中でも、これらの歌の中には、押さえ切れない青春の明るさが、ふきこぼれるようであった。そして、蔵前国技館に四万人を集めて開かれた一九五五年の日本のうたごえ祭典は、会場の外にあふれた人たちで夜遅くまで混乱を続けた。それほど運動は高まり、広まっていた。そして、その昂揚と発展は、同時に危険な退廃の芽をもはらんでいたといえよう。職場を離れ、たたかいを離れて街頭に出て来た時、今まで、どちらかと言えば純粋培養されて来たうたごえは、この限界を知らない巾広さに対処できなかった。体制側のうたごえ対策がこの時期に整備される。一方では「うたごえはアカだ」という圧力を強めながら、他方ではコーラス運動育成という姿勢を取り、その中で内容を骨抜きにして行くという作戦であった。文部省版の官製「うたごえ」運動というのが、マスコミを賑わし、書店には青年歌集まがいの歌の本が次々に登場した。そして、運動の内部では共産党の六全協による混乱が押さえがたく進行し始めていた。「うたごえ」は、まさにその絶頂期に、停滞と混乱の時期を迎えたのである。一九六〇年、歴史的な安保闘争をむかえ、うたごえは、再ぴたたかいの中によみがえる。

 この時期を代表するのは、三池の労働者作曲家、荒木栄の作品である。『がんばろう』が、安保闘争後半の日ましに増大するデモ隊をはげました。そして『心はいつも夜明けだ』(夕陽が汚れた工場の屋根に …以下省略… 昭34)、『仲間の歌』(重たい雪を真白にかぷった …以下省略… 昭34)などが若者たちの新しい愛唱歌となった。『星よお前は』(昭34)、『みんなが笑う日まで』(昭34)など、労働者の楽天的な明るさと、やわらかい抒情が結びついた。すぐれた歌が次々に生まれ、外国の歌では『キューバ・シー・ヤンキー・ノー』(昭38)、『平壌は心のふるさと』(昭38)、『自由ヴエトナム行進曲』(昭30)などがその時々の情勢を反映してメーデーの中で歌い広められた。しかしそのメーデーのプラカードに、テレビのコマーシャルをもじったものがふえ始める。民放テレビのあいつぐ開局で、日本はまさにテレビ時代を迎えようとしていた。テレビがあらゆる分野に与えた革命的な影響力は、うたごえにおいても例外ではなかった。うたごえの第二の昂揚期はちょうどこの時期にぷつかっている。うたごえの歌が、若者の共通の愛唱歌になることは、すでにむずかしかった。

 うたごえのレパートリーの中にテレビやラジオで流される歌がふえ、うたごえ運動の中でも、現代化、大衆化の問題が切実に取りあげられ始めた。1971年の第12回日本のうたごえ実行委員会は、現在の音楽情勢を次のように分析している。「音楽の退廃化もいっそう強められ、”愛”を歌うと言いながら、セックスを売りものとし、人問性を否定し、連帯の感性を切リ離す内容のものを大量に流し、特に十代、二十代の青年の目を政治からそらせ、軍国主義へ思想的に動員する方向を強めています。これらのことは世界第一位のピアノ、金管楽器の生産、世界第一位のテレビ普及、年間1億2千万枚のレコード生産、四世帯に一台のステレオ、大量の音楽機関など、世界最大の音楽市場の一つという日本の条件を利用してすすめられて来ています。」

新しい運動として
 うたごえ運動がはなやかなブームを呼ぷことはもうないだろう。現象的なブームが終わったところから、うたごえは本当の音楽運動として定着し始めたようである。
 日本のうたごえ二十周年を記念して、集団創作されたオペラ『沖縄』(昭45)が成功し、創作歌曲が年間一千曲を越え、その半数以上は大衆自身の作品である。今、うたごえは全国民的な課題である公害問題に、その創作の目を向けている。『ここは故郷』(昭44)は、あるいは、もう一度うたごえの枠を越えて、国民歌的な存在となつ得るかもしれない。
こんなに空がよごれても こんなに空がにごっても
こんなにほこリにまみれても ここは故郷私の町
  ■作つかえよう美しく 作つかえよう美しく
『ここは故郷』(藤本洋詞/松浦豊作曲)
 「うつたごえ」は今もなお、やはり青春を生きつづけている。いつわりを見抜く澄んだ目、怒るべきことを怒る熱い心、青春の特質のすべてが、ここには生きている。そして今こそ、若いみずみずしい情熱をもって、「うたごえ」は音楽運動として成人への第一歩を踏み出しつつあるのではないだろうか。


日本の唱歌11「青春歌唱集U」/片山明子(昭和47年/中央公論社)
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労働歌
労働歌の定義
 労働歌は労働の時に歌う歌で、田植え歌や木こり歌、馬子唄、舟歌などがある。狭義の労働歌は労働運動の歌や労働者を励ます歌のこと。広義には革命歌、組合歌、反戦歌などを含む。労働運動と密接な関わりがあり、戦前や戦時中は歌うのや放送が禁止された歌もある。 労働とは少し違うこれらを含む言葉としてなら、強いて挙げるなら「運動歌」という言葉が相応しいようにも思えるが、「運動歌」という言葉は、今のところ存在しない。

戦前の歌
インターナショナル(1888年、作詞:ウジェーヌ・ポティエ、作曲:ピエール・ドゥジェイテル、訳詞:佐々木孝丸・佐野碩)
 フランスで作られた革命歌。労働運動を代表する歌となり、ソビエト連邦の国歌(1944年まで)とされた。日本では1922年に佐々木孝丸が翻訳し、1929年に佐野碩とともに改訳した歌詞で歌われている。ただし、その歌詞は原詞には忠実でなく翻訳というより翻案に近い。
聞け万国の労働者(メーデー歌/1922年、作詞:大場勇)
  原曲は旧制第一高等学校の寮歌「アムール川の流血や」(1901年、作詞:塩田環、作曲:栗林宇一)。1922年の第3回メーデーの準備の中で大場による歌詞が作られた。なお同じ曲が陸軍幼年学校で「歩兵の本領」(万朶の桜か襟の色)という軍歌に借りられて歌われた。
「赤旗の歌/赤旗」(ドイツ民謡、作詞:ジム・コンネル、訳詞:赤松克麿)
 原曲はクリスマス・ソングとして知られるドイツ民謡の「樅の木」。1889年にロンドンで起きた港湾労働者のストライキを激励するためにコンネルが讃美歌として歌われていた「樅の木」に歌詞をつけ、それが1920年代のアメリカ合衆国の労働運動で広く歌われるようになった。日本にはアメリカの労働運動の歌として紹介され、1921年頃に赤松による歌詞で歌われるようになった。原曲の「樅の木」とは違い、行進曲風に歌われる。

戦後の歌
ガンバロ−(1960年、作詞:森田ヤエ子、作曲:荒木栄)
 三池闘争で作られた曲。それまでの労働歌=男の労働者というイメージを変えた。
炭掘る仲間(1956年、作詞:三池労働組合、作曲:小林秀雄)
 炭鉱労働での仲間との団結を歌った。三池労組の組合歌でもある。
燃やせ闘魂(1958年、作詞・作曲:荒木栄)
 これも三池闘争と思われがちだが、元は北海道の炭労から。歌詞を繰り返す単純な曲。
おれたちは太陽(1962年、作詞:門倉さとし、作曲:荒木栄)
 労働者の力強さと希望を歌っている。

その他の運動の歌
学生運動や市民運動などを励ましたり、歌ったりする歌のこと。
たたかいの中に(作詞:高橋正夫、作曲:林光)
 1952年に起こったメーデー事件ので、警察官に拳銃で打たれて死亡した高橋正夫のメモを基に作られた歌。
沖縄を返せ(1956年、作詞:全司法福岡高裁支部、作曲:荒木栄)
 沖縄返還運動の象徴的な歌。1960年代の学生運動などでもよく歌われた。
反対同盟の歌
 成田空港建設反対運動の中核的役割をした「三里塚・芝山連合空港反対同盟」の歌。成田の地に住む人たちの誇り高さを歌っている。

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