カチューシャ 【Dm】

作詞
作曲
訳詞
イサコフスキー
ブランテル
関 鑑子


リンゴの花ほころび 川面にかすみたち
  ■君なき里にも 春は忍び寄りぬ
  ●君なき里にも 春は忍び寄りぬ

岸辺に立ちて歌う カチューシャの歌
  ■春風優しく吹き 夢がわくみ空よ
  ●春風優しく吹き 夢がわくみ空よ

カチューシャの歌声 遥かに丘を超え
  ■今なお君をたずねて 優しその歌声
  ●今なお君をたずねて 優しその歌声

リンゴの花ほころび 川面にかすみたち
  ■君なき里にも 春は忍び寄りぬ
  ●君なき里にも 春は忍び寄りぬ

同名異曲: ブランテル曲 ロシア民謡

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新おけら歌集(03/03/16) / うたごえツアーin東京(03/05)
楽譜:ビーさん(2004/09)

■1938年の作品。村の娘が前線の恋人に捧げる愛の歌。第二次世界大戦から戦後にかけてソ連の人々に愛唱され、世界的にも有名な曲の一つ。

■カチューシャ
 前にも書いたが、この「灯火」とか「カチューシャ」、それから戦後の日本にこれまで紹介されてきたソヴェートの歌曲はは、殆んど厳しい時代を背景として生まれた、ということてである。
 日本が戦時中にどのような優れた歌曲を世に出したか。皮肉なことに「愛国行進曲」がヨー口ッパの一部の国で演奏されたのを除くと、愚劣な軍歌だけだった、といわれても仕方がない。日本人はまだ本質的に流行歌の中から優れた歌曲を生みだすまでになっていない。
 ソ連を殊更にほめる必要もないが、音楽の面では無条件に認めなければならないだろう。「灯火」は敗戦へいま一歩という時代に生まれた、いわば典型的を戦争流行歌である。
「戦線では、私達はモスクワ放送局の送るアガニョーク(灯火)を携帯ラジオでききながら、黙つて顔をみ合わせたものです」と私の知人のひとりは感概深そうにいった。
 ペトロフというパルチザンの隊長は、カチューシャをききながら、涙を流していた。「私達の戦斗任務はパルチザンですからね。深夜ドイッ軍の占領オる森を、後方から撹乱する日的ですすんでいきました。空をみあげると星が凍ったようにまたたいているんです。そのとき、まるでささやくように、私の携待ラジオが鳴りました。モスクワからです。懐しいアナウンサーの声がきこえてきます。
 −前線のみなさん、同志!困難な任務を逐行しつつあるパルチザンの諸君、これからみなさんへ【カチューシャ】をお送りします−
 私は部下に行進をやめろ、と合図しまLた。そして窪地に身を伏せてカチューシャをききました」
 ペトロフ大尉はそういうと横を向いた。その夜の後方攪乱で、彼の部隊は潰減に頻し、彼と7人の部下が生き残ったただけであった。それを思いだしたのだろう。
 カチューシャは無論娘の名前だが、彼女は満州に関東軍をスパイするために潜入した。本当はそうなんだ、その征途を歌ったのだ、と私の知人であるロシヤ人はいった。作られたのは1939年以前のはずである。いったん流行したがすぐ下火になり、しばらく忘れられていたが、ソ連は対独戦を勝ちぬくために新兵器を作ってカチューシャと名付けた。驚くべき偉力を発揮する火砲であり、オーゼル河の渡河戦ではこのカチューシャのために独軍は潰減的な打撃をうけた。この新兵器の製作にあたって全国のカチューシャと名のつく娘達に訴えた。「あたな方に代って彼女は前線へ出勤する。ヒトラー共の一党をやっつけるのだ」
 こうして献金された金でもって、カチューシャ砲は続々と作られていったのであるが、同時に「歌」カチューシャも再び圧倒的にうたわれるようになった。
 日本では、まだ「復活」の中に出てくるカチュ一シャだと思っている人が少くない。
 戦時中、ソ連では歌曲が一つの重要な戦力をなしていた、ということは、本来の意義からはずれているとしても、人間感情をあらゆ昧で救っていた、とすると、それではもう単なる戦力のための、という平面的な解釈では不充分となる。矢張り優れた歌曲としての特質はどんな場合にも発揮される、ということなのだろう。
 尚、「灯火」は1954年の10月、レニングラードの放送管弦楽団が、タンゴとして素晴らしく見事に演奏した。
1960/01/28 百瀬三郎【島村喬】