ロシア民謡とは何?
石林紀四郎氏(男声合唱団マーキュリー・グリークラブ)

ロシア民謡 おけら歌集 とっぷ

私たちの演奏曲研究
 篠崎・永井さんからまたロシア民謡の解説を書けと命じられました。 しかし日本人にはなじみの深いロシア民謡だが、意外にまともな資料がない。 当日比谷図書館にも大したものはない。上野の音楽資料室にも行ってみたが思うようなものはなかった。 リーダーターフェルを聴きに行きプログラムも見たが、これも曲目に作曲者や作詞者が有ったり無かったり。 MGCで使用している楽譜も同前です。そこで少し書き足すと次のようなものです。
曲名 作詞 作曲 訳詞 編曲
黒い瞳     門馬直衛 イジュンチル
ともしび イサコフスキー     三木 稔
P・ガムザートフ Y フレンケリ 坂本やす子 荒谷俊治
カチューシャ イサコフスキー M・ブランテル 石丸 寛 福永陽一郎
赤いサラファン   A・ワルラーモフ 津川主一 福永陽一郎
カリンカ       G・アントン
ところで民謡といえば古くから歌われてき民衆の歌というニュアンスで受け取っている人が多いだろうが、今回われわれが歌う曲のほとんどは作詞者や作曲者もはっきりしているし、そんなに古いものではない。「ロシア民謡」って何だ? 大体ロシアという国は学校でもあまり歴史を習っていないし教えていないし、よく知らない。そこで井上頼豊、北川剛、一柳富美子などの本からかき集めたものや、ネットで見たものなどを取り入れて原稿の材料をメモ。勝手に自分がそうならみんなもそうではないかと決めつけて書きました。

歴史
 ロシア人は集まると素晴らしい合唱を楽しむ。音楽の中に和音という要素を持たない日本文化の中に育った我々としては羨ましくさえある。そこには歴史があり、歌はロシア音楽の中心でチャイコフスキーの交響曲やラフマニノフのピアノ曲でもロシア人はそこに歌を感じるという。
 ロシアでは歌は特別な意味を持つようだ。一柳氏によるとロシアで合唱が発達した特殊事情があるという。
ロシア語はイタリア語と並んで母音の多い言語。音譜を乗せやすく歌が生まれやすい。美しいロシア語はそれだけで歌のように聞こえるし。実際、ロシアでは今もなお、詩の朗読会を「コンサート」と呼んでいる。(本当はロシア語でやりたいですね。 こだわるけれど…… (石林)
ロシア正教が典礼で楽器の使用を禁じていること。西ヨーロッパでは教会にオルガンは不可欠だがロシアの教会では未だに聖歌はすべて無伴奏で歌われる。したがってバッハのオルガン音楽ようなジャンルはロシアには存在する余地が全くなく、逆に人の声すなわち歌を主体とした芸術が高度に発達した。16世紀には聖歌は単旋律だった。やがてポーランドの影響を受けてからは徐々に西欧化の道をたどり、和声的な多声楽の様式が現れた。それだけ合唱の比重は重いともいえる。
 
 ロシア民謡は暗く、重い。しかしその短調の調べが日本人には親しみが湧く。ルーツは10世紀に活躍したキエフ国家時代の吟遊詩人。グースリ(チター属)という台型の弦楽器を膝に乗せておもに皇帝の英雄振りを賛美する叙事詩を歌った。
 14世紀にモスクワロシアの時代国家は繁栄するが重税のしわ寄せが貧しい農民にのしかかり、歌は次第に皇帝批判へ。 そのため皇帝はグースリを見つけたら焼却する条例を出したという。 ロシア革命まで葛藤が続く、恋や自然を歌ったものもあるが貧しさを嘆くものが多い。
ロシアで多声の合唱が広まったのは16世紀。 皇帝の圧制と窮乏を逃れてドン河の流域に住み着いたコサックの人々、(コサック……もとはトルコ語の「自由人」)、いわゆるドン・コサックはそこに独唱と合唱を組み合わせた独自の多声音楽を生み出た。民族的多声歌という。 独唱で始まり、合唱と独唱を組み合わせたもので17世紀にはヨーロッパにはなかった。
彼らは農民暴動の指導者として全国各地を歩いて農民を指導した。それとともに、彼らの多声歌も全土に広めていった。彼らは儀式の中では生活の面を歌う部分を復活させ、生活の歌のジャンルを発展させた。それが四声の多声歌の広まりの中で国民楽派に大きな利益となった。
アンナ女帝が西欧化政策で西ヨーロッパの音楽を積極的に輸入し、本格的なイタリアオペラを招聘してからは、貴族の没落が激しい西欧に代わって、18世紀ロシア宮廷はイタリアオペラの有力な庇護者になった。イタリアに音楽留学するものも出るが時代の主役はあくまで歌。
 1825年12月、フランス革命の影響を受けて、デカブリストの乱が起こる。デカブリストとはナポレオン戦争で疲弊し、重税に喘ぐ国民の中で、ナポレオンを追ってフランスに入った若手貴族達がフランス文化と接触。その影響を受け皇帝アレクサンドル急死の空位の混乱を期にロシアで革命を起こそうとしたインテリ層などによる闘争だ。
 敗れてシベリアに流刑された囚人、これに関わった人々の悲痛な生き様はその後プーシキン等の詩人とデカブリストとの親交などによって悲しみや怒りが歌となり、「バイカル湖のほとり」「仕事の歌」などの多くはロシアの人々に様々な形で歌い継がれた。
 こうした暗さの反面、19世紀には貴族達の夜会、宴会の中で貴族のお抱え楽士が来客をもてなす為に作詞作曲して即興で歌って客の喝采を得ることがはじまり、ピアノがロシアで生産され始めたこともあってこれが流行。民謡とは異なるジャンルが生まれた。ゆっくりしたテンポで叙情的な旋律を歌う「ロシア・ロマンス」といわれる歌だ。ワルラーモフの「赤いサラファン」もその一つ。このロシア・ロマンスはその後チャイコフスキーなどの作曲家に大きな影響を与えた。
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ソビエト連邦時代
これらのほか、日本で歌われる「ロシア民謡」の大部分は第二次大戦前後に生まれた、いわばポピュラーソング。「モスクワ郊外の夕べ」「モスクワの夜は更けて」などのような戦時色のないものも一部あるが、「灯(ともしび)」「泉のほとり」「ポリュシカポーレ」「カチューシャ」「バルカンの星の下に」 など内戦や第二次大戦などを通じて戦時歌、軍歌が多い。これが戦時歌、軍歌? 「非常時」に恋を歌うなんて、日本ならさしずめ非国民の歌!

そしてこれが民謡?
 待てよ? 日本でもベトナム戦争反対などの運動で多くの反戦歌が歌われ、これらはフォークソングと呼ばれた。要するに民謡だが、これは別のジャンルで決してこれを日本の民謡とはいわない。ロシア民謡はまさに日本でいう民謡とフォークソングを併せたものなのだと独りごつ。こうした歌の一方で、第二次大戦前後に生まれたロシア民謡は………。
一柳氏のまとめではロシア民謡は………
@ キリスト教伝来以前の古いもの 婚礼や収穫の歌
A キエフ・ルーシやノブゴロド時代の英雄叙事詩
B 15・6世紀以降の農民層が生み出した歌
C 革命前の様々な下層階級の人々が歌った歌
▼「馭者の歌」「舟曳きの歌」「囚人の歌」「兵士の歌」など社会の底辺の人々が民謡を育んだ。
▼「トロイカ」「ボルガの舟歌」「母なるヴォルガをくだりて」「ステンカ・ラージン」「バイカル湖のほとり」」「黒いカラス」 ロシアで特殊な地位を占めていたジプシーの「黒い瞳」「二つのギター」なども。
D 西欧の和声法を取り入れた都市の俗謡
▼インテリや貴族の間に流行 カーシンの「黒い瞳の」、ヴァルラーモフの「赤いサラファン」など
E 革命後の大衆歌曲
▼様々なものがあり、1825年のデカブリストの乱の頃に生まれたものや、Bに分類される「仕事の歌」などもある。
▼日本で歌われる「ロシア民謡」の大部分はEでむしろポピュラーソング。
▼「モスクワ郊外の夕べ」「モスクワの夜は更けて」などのような戦時色のないものは少なく、「灯(ともしび)」「泉のほとり」「ポリュシカポーレ」「カチューシャ」「バルカンの星の下に」 など内戦や第二次大戦などを通じて戦時歌、軍歌が多い。
形式からも分類すると延べ歌、踊りを伴う速いテンポの「速歌」「踊り歌」「群舞歌」など
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曲目解説
黒い瞳(め)
 ロシアのジプシーの間に古くから伝わる情熱に溢れた民謡で、世界的に有名。ロシアでは18世紀のトルコ戦争のころから東洋的で官能的なジプシー音楽が盛り場を中心に流行りだし、その影響はのち長く創作歌謡や芸術音楽にまで及んだ。今日のロシアでも民衆がギターやアコーディアンで好んで歌う歌にはこの種のものが多い。メランコリックで牧歌的な色合いを持つこの曲は日本でも昭和初期から愛唱されている。
灯(ともしび)
 第二次大戦中から戦後広く愛唱された。日本には戦後ソ連から帰還した日本兵によって紹介されダークダックスが歌って広まり「うたごえ」の人気NO.1に。戦線におもむく兵士と故郷に残る恋人がそれぞれ胸に抱く美しい愛情こそ祖国にささげる黄金のともしびである・・・・というイサコフスキーの詩によって広く歌われるようになったが曲は古い民謡の旋律だ。

 ソ連の小国ダゲスタン自治共和国の詩人P・ガムザートフが広島の原水爆禁止世界大会に参加した感動をうたった詩にY・フレンケリが曲を付けた大衆歌曲(日本で言えば歌謡曲、流行歌か)として作られた。広島の千羽鶴を見て詠ったともいう。
 戦場で傷つき逝った兵士達は異国の地に眠りながら、白い鶴となって訪れる。切ない声で深い悲しみを秘めて、人の世を忍び嘆き悲しみの歌をうたいつつ。夕暮れの空のあの列の空いたところ それは私の為か。私もやがてあの中に……。
カチューシャ(M.ブランテル作曲)
 カチューシャはエカチェリーナまたはカチェリーナという女性の愛称。第二次大戦中に作曲された大衆歌。春は巡ってきても戦場に赴いたまま帰らぬ恋人をしのんで故郷に淋しく待っている娘の姿を歌う。
 M(マトライ)・ブランテルはオペレッタや大衆歌の作曲家
 (第二次大戦初期にフィンランドとの紛争があり、その戦中歌だという解説とドイツとの戦争時のものという解説があった)
赤いサラファン(緋色のサラファン)
 サラファンとはロシアの農夫の着る袖無しの長いドレスつまり婚礼の晴れ着。赤いというロシア語クラースヌイには美しいという意味もある。 これを編んでいる母親に娘が「まだ私はお嫁に行かないから、それ早いわよ」というと母親が「いつまでも若くはないんだよ。これを縫っていると自分の若かった娘の頃を思い出すわ」という母娘の会話。 アレクサンドル・ワルラーモフ(1810−48)の1834年作曲の芸術歌曲
カリンカ(コサックの民謡)
 黒海近辺に広く分布するコサックダンスを伴う祝婚歌でロシア民謡には舞踊と共に歌われるものが数多くありこの曲もその中の代表的なものの一つ。エネルギッシュに速度を増していく「速歌」と呼ばれる躍動的な合唱部分と、ゆっくりした幅の広い独唱部分が交互に現れて、面白い対比をなしている。抑揚をたっぷり付けて、速めたり遅くしたり様々な変形がある
 カリンカはスイカズラ科の灌木カリーナの愛称、またはその赤い実のことで花嫁の象徴。マリンカもエゾイチゴのマリーナの愛称(素晴らしいものという意味も)
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追記
 「」はガムザートフ作詞です。ただしカザムートフではありません。我々の使っている楽譜の綺麗なものはリーダーターフェルのもののようですが、表紙にはR.カザムートフとあり、譜面にはR.ガムザートフとなっています。そして先日のリーダーターフェルの演奏会を聞きましたがそのときの解説にはP.ガムザートフ……いったいどうなってるの? プログラムの解説だけでなくプログラムそのものにも書くことになるので正確を期する必要があると仕方なくインターネットで調べました。

 アルバハン・マゴメドフ(ウリヤノフスク国立工科大学、ロシア/センター外国人研究員として滞在) 。 大須賀さんからセンターニュースに小エッセイを書いてほしいと頼まれたとき、一つだけ困ったことがありました。この膨大な印象をどうやって1-2ページに収めたらいいのか、ということです。当然、短く書くことのほうが難しさを伴うものです。この短文に私が記すことができるのは、日本の最も鮮明な印象のみです。
 最初にちょっと脇にそれますが、おもしろいことに私が初めて日本の名称を耳にしたのはまだ子どもの頃でした。私は村の小学校の生徒だったのですが、郷土文学の授業でダゲスタンの詩人ラスル・ガムザトフの作品を習いました。ガムザトフにはあの名高い『鶴』から始まる日本を題材にした大きな連作があります。『鶴』はソビエトで一世を風靡した歌ですが、この連作の中で私にとりわけ印象深いのは『奈良の都で』と『広島の鐘』です。これらの詩は見知らぬ土地の悲しみと希望への共感にあふれており、非常に感動的に、そして冴え冴えと響くのです。
そしてYamabukiという名のバラが
年々歳々あたりを黄色く染め上げる
きみよ、生者らに手を差しのべ給え、
私は傍らで悲しげに警鐘を鳴らしつづけよう
と、こんな記述を見つけました。正解はR.ガムザトフ。  なかなか難しいものです。

ロシア民謡って何だ? と調べた結果ですが、民謡のスタイルと私が思いこんでいるのは実はそんなに古くからものではない。 日本民謡の解説のために調べたときと同じ感想です。意外に知らなかった。
 日本民謡でもいまは三味線と尺八などを使うのが民謡となんとなく思っていたが、あれだって実は明治から。尺八は幕府時代の寺院法度のもとで晋化宗の虚無僧達が尺八を独占するため一般民衆の尺八を禁じるよう幕府に要請。その特許をもらう一方で幕府の密使・間諜として働いたのだそうだ。ロシアでグースリという楽器を農民反乱のシンボルみたいに思いこんで楽器狩りをした話はなにやら権力と民衆の音楽の熾烈な闘いを感じます。それだけメッセージ性があるということなのでしょうか?
「知的な遊び」も楽じゃない。………(中略します
「黒い瞳」の訳詞者は門馬直衛か堀内敬三か?
 日比谷図書館でレコードを調べました。ダークダックスのキングレコードがありました。上野文化会館のレファランスに問い合わせました。「これが正しいとまでは云えないのですが」と私たちの使っている歌詞は門馬直衛とされている楽譜があり、堀内敬三の訳は別の歌詞でもう一つあるとのこと。
再度インターネットで調べると次のような歌詞です。二行目までは全く似たような歌詞なのでどこかで早とちりした情報が流れているのでしょう。 したがって楽譜通り門馬直衛が正しいとするのが適当と思います。インターネットは便利ですが間違った情報も多いし、いったん出てしまうとそれをまた引用したりするので危ないですね。因みに歌集をいっぱい調べたのですが「黒い瞳の」は沢山あるけれど「黒い瞳」はほとんど収録されていないことを初めて知りました。

黒い瞳(堀内敬三訳)
黒い目 君の目よ 狂おしく 燃える目よ
 いつまでも まぼろしに  うかぶのは 黒い目よ
あの日の あの夜の  悲しさよ くるしさよ
 呪われた 愛情は  飢えていた 燃えていた
いつまでも まぼろしに  浮かぶのは 黒い目よ
 このいのちを かけた恋  忘れ得ぬ 黒い目よ
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ロシア民謡の主人公「エルマクとステパン・ラージン」
コサックとロシア民謡
 生活にもだえ苦しむ農民の一部は迷亡をくわだて、国境を越えて南ロシアのステップ地帯に移り、15世紀からそこに住んでいたコサック(カザークといい、少数の逃亡農民や奴僕の群れ)の仲間入りをする。そして、その仲間の数が次第に増えるにしたがってドン河・ヤイク河・チェレク河などの流域に大きな集団を形成して定着するようになるが、中でも最も組織的で強力だったのが、ドン河流域に住みついたコサックの集団だったといわれる。このドン・コサックが現在まで継承されているロシア民謡の歌唱様式の創始者たちなのである。
 この様式とは、ひとつにはコサックの生んだ民族的多声歌である。この民族的多声歌は教会を中心に生まれた多声歌が詩の形式で書かれているのに対して、会話の形式で民族的な性格をもっている。歌唱もザピェフ(歌いはじめの独唱、俗にいう音頭とり)ではじまって合唱(重唱を経ることもある)になる様式で、この歌唱様式はロシア民謡のひとつのスタイルとして現在までも残されている。
 コサックの主な仕事は漁業、牧畜、狩猟だったが、時には海を渡ってトルコ、ペルシャ、クリミヤの海岸の富豪の邸宅を荒らしまわったり、ヴォルガ河ではロシア商人の船(ルビー船)を襲ったりした。
 彼らはその当時としては珍しく民主主義的原則を守り、クルークと呼ばれる総会を本陣(サプラーニャ)や、「舟ひき人夫の巣窟」などでひらき、首領(アタマン)や一等大尉(イェサゥルセいい、おそらく"頭"ぐらいの意味〉を選挙し、遠征の道順について、またそれによる獲物の分配を決定していた。この会議の模様や、遠征での出来事についてうたった歌が、伝承詩としてたくさん残されている。

 彼らは自己防備や、富豪からの掠奪のための軍事力を強化しようと、ますます大集団化の道をたどり、実質的には独立国家としての形をとってきたが、時にはモスクワ大公の宗主権を認め、モスクワ政府はコサックを国境地帯の警備に利用したため、戦争に参加することさえあったた。中でも、コサックをシベリヤ征服のために派兵したことは、ロシア史の中の重要な出来事であった。
 なお、当時ウクライナはポーランド領になっており、ポーランド人の地主からの圧迫をのがれてドニエプル河下流の早瀬(ポローギ)の中の島にコサックの集団ができ、だんだん勢力を増してザポロージェ・コサックと呼ばれた。ここからは、ドン・コサックが生んだものよりは、もっと精力的で、はげしいリズムをもった歌や踊りが生まれた。

エルマク
 B・ドヴラヴォ・リスキーとA・サイモノフが編集した『農民戦争と暴動に関するロシア民謡』の中に述べられている初期のアタマン「エルマク」を中心にしたコサックの生活や歌の概略にふれてみたい。
 エルマクに関する一連の歌の中にでてくる最も重要なテーマのひとつは「自由なる人びと(コサツクのこと)」と「皇帝」との紛争である。「エルマクには絞首刑が言い渡され、また彼の若者たち(手下)には堅固な独房に入ることが書き渡された」とか「皇帝がコサックに対して4万の大軍を派遣したので、アタマンはコサックたちにウソーリエのストロガンに移動するよう提案した」という一節があり、またほかの歌では「コサックたちは冬ごもりするために、アストラハンに集まった後、勝手気ままな行動を許してもらうためにいやなモスクワヘむかおうとした………」ことがうたわれている。
 また、モスクワ政府との衝突の原因が「カスピ海沿岸荒らし」であったり「ルビーの船(ロシア商人の豪華船)への攻撃」てあったりであったことがあげられている。
 エルマクについての表現も、自立性・勇敢さ・勇猛さが強調され、皇帝のところへ出かけて行くエルマクは「外套を鍬にひっかけ、はだしの足に山羊皮の長靴をはき、テンの皮の帽子を小協にはさんで………」という、後に出てくるステパン・ラージンを初めとする一連のアタマンの外貌を典型的に描いている。

 イヴァン雷帝の前に立たされたエルマクは、「広野をさまよい歩かなかったか?」「ルビー船をこわしたのではないか?」という雷帝の質問に対して、「自分の軍隊がそのような行為をやった」ことを認め、「困難に打ち勝ってカザン市を占領し、そこにあたかも皇帝のごとく7年間も君臨した」ことを平然と認めた一件が史実として残されている。
 コサックたちは、この会談の見事さを褒め称え、いろいろな歌を残した。その中には、皇帝の使者であるイヴァン・カラムイシェフや、アストラハンの市長(18-19世紀の記録では県総督と呼ばれている)との出会いを写実的に描いた歌もある。

 モスクワ政府をさんざん手こずらせたこのエルマクも、カマ河からウラル山脈にかけての広大な土地を所有していたノヴゴロド貴族の後裔であるストロガノフ家の傭兵隊の隊長として、1581年からシベリヤ汗国の征服のために出陣し、イヴァン雷帝が死んだ年と同じ1584年にイルトゥシュ河で敵の夜襲をうけて戦死する。彼の悲惨な最後をうたい、勇気ある行動をたたえた歌の中に、日本に古くから紹介されている、「エルマクの死」がある。
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ステパン・ラージン
 1613年、イヴァン雷帝の死からボリス・ゴドノフ(ムソルグスキーの歌劇)の悪政を経て、ロマノフ王朝が成立する。
 相次ぐ戦争で農民の生活は極度に困窮し、1662年にはモスクワ民兼の大叛乱が起こった。この直接の原因は、戦争の費用に困った政府が、その対策として大量の銅貨を鋳造し、これをいままでの、銀貨と等価橋で流通させようとしたため、食料品をはじめとする物価が暴騰して民衆の生活をおびやかしたためである。
 この叛乱は近衛隊によって弾圧されたが、有名なステパン・ラージンの叛乱の大きな原因にもなったのである。
 17世紀に入ってコサックの数は急増したが、その中でゴルイチバと称する、コサックの集団には入れない下層民の増加はめざましく、ラージンの行動に参加したほとんどが、このゴルイチバであったといわれている。以下、ラージンの動きを年代順に追ってみることにしよう。
■1667年春: ゴルイチバを部下としたコサックのアタマン、ラージンはドン河からヴォルガ河にでて、その河を下ってカスピ海に進出後、ヤイツキー・ゴロドグを占領。
■1668年春: 数千のコサックをつれてカスピ海を渡り、翌年にかけてペルシャ沿岸の富豪の富を荒らしまわる。
■1669年秋: たくさんの獲物などをもってヴォルガ河口に上陸、ドン河の故郷に帰って本陣をつくる。ゴルイチバをはじめとする多数のコサックが名声にひかれて集まり、部下となる。
■1670年春: 本陣を出て、ヴォルガ河の下流地方にあらわれ、アストラハンを占領。ラージンの指導や、その影響をうけた叛乱はヴォルガ流域一帯にひろがり、各地の農民や都市の下層民が役人、貴族、士族、大商人や修道院に対する叛乱を起こし、一部の兵士とともにラージンの軍隊に加わる。
 ラージンは「全ロシアの政府と役人と、農奴制の重圧から農民を解放する」と宣言し、ヴォルガ河を北上してサラトフ、サマラを占領し、シビルスクを包囲。そのときのツアー、アレクセイの派遺した有力な政舟軍(西欧式な訓練をうげた軍隊)の攻撃をうけて、ドンの本陣に後退する。
■1671年春: ラージンに反感をもっていたドン・コサックの他のアタマンに捕えられ政府に引き渡される。その年の6月、モスクワにて絞首飛執行。
 こうしてラージンの叛乱は鎮圧されたが、彼の行動は農民や都市の下層民に勇気と可能性を自覚させ、第二のラージンよ出でよ-の声は全ロシアにこだまし、多くの歌を残した。
 こうした歌が採譜されたのは十八世紀の後半である。これに関するパリチコフやリストバドフの出版物は、民衆が一世紀以上もの間、歌を大切に保存していたことを示している。

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■現在、歌われている「ステンカ・ラージン」の歌詞は、ヴォルガ地方の詩人D・サドフニコフ(1843〜1883)が死んだ年に発表した「ヴォルガの使者」という詩集の十二番目にある「島のかげから獲物めざして」だが、今では大変ポピュラーな歌になっているので、その原歌詞紹介しておきます。
島のかげから 獲物めざして
河波のひろがりの ただ中に
漕ぎいでた色あざやかな
ステンカ・ラージンの小舟
「何も惜しまない
この荒荒しい首もやろう」
威厳にみちた声が
岸辺にひびぎわたった
舳にはステンカ・ラージンが
姫と抱きあって すわっている
新しい婚礼の式をあげて
彼は陽気に酔いしれている
「ヴォルガ ヴォルガ 生みの母よ
ヴォルガ ロシアの河よ
お前えは見たか
ドン・コサックの贈物を
だが姫は目をとざし
生きた心地もなく
泣きだしそうに黙って
酒に酔いしれた アタマンの声を聞く
自由になった人びとの問に
いさかいを起こさぬために
ヴォルガ ヴォルガ 生みの母よ
さあ 美女女を受けとってくれ」
そのうしろにきこえる ささやき
「われらを あの女にすりかえたな
たった一夜 彼女と結ばれたら
朝には自分まで女みたいになった」
10 力強く手をさしのべて
彼は美しい姫を抱きあげた
そして流れゆく波間に
彼女を投げいれた
このささやきとあざけりの声を
恐ろしいアタマンは聞きつけた
そして彼は力強い手をのばして
ペルシャ姫の体をつかんだ
11 「どうした兄弟たちよなぜ黙っている
さあフィリカよ 踊ってくれ
波の彼方に眼をむけて
彼女の冥福を祈ろう」

アタマンの眼は 怒りで血ばしり
黒い眉をみひらいて
雷鳴のような 声をとどろかす
12 島の彼方から河の中州の
河波のひろがりの ただ中に
漕ぎいでたのは 色あざやかな
ステンカ・ラージンの小舟
資料=『民族と風土のうたごえ〜ロシア民謡の歴史』(音楽之友社)著者「北川 剛」
ロシア・ロマンス
 2006年11月、「うたごえツアーin東京ver4」に行ってきた際、カチューシャでカルメンさんにロシア・ロマンスのソロをリクエストしました。大サービスで2曲も歌っていただき、bunbunもbunママも、また、その場においでの皆さまも大感激! その後で、カルメンさんからcopyをいただきました。それが下に紹介するものです。ケヤグのおやきさんに尋ねたら『民族と風土のうたごえ〜ロシア民謡の歴史』(音楽之友社)という本だそうです。著者は「北川 剛」さんです。

ロマンスの誕生
 ノヴゴロド文化の時代に、史歌が貴族の手を離れて、次第に民衆的な音楽の芽生えを見せ始めた頃から、貴族達の中で「温室の中の花」のように育まれてきたのが教会の儀式の歌であった。そして、それは次第に多声的となり、現在の合唱曲の形を整えながら、D・ボルトニャンスキー(1751-1825)をはじめとする「ロシア聖歌」の後継者達によって発展させられ、チャイコフスキーなどロシア作曲家に大きな影響を及ぼしている。

 一方、吟遊詩人は17世紀に入ると各地に定住して、貴族や領主のお抱え楽師となるが、ピヨートル一世の時代から貴族達の社交機関である夜会の中で、この楽師達が来客をもてなすためにうたう歌、ロマンスが生まれた。これらは即興で作詞作曲されたようだが、現在まで残っているものも含めて「ロシア・ロマンス」と言われる。いずれもテンポのゆっくりした叙情的な旋律が多いが、19世紀以降のロシア作曲家や革命後のソビエト作曲家の作品の中に数多く見られる「ロマンス」とは、内容や芸術的価値を異にして考えるべきだろう。
 日本に紹介されて、馴染み深くなっている「ロシア・ロマンス」の代表的なものに「君知りて」「愛はとわにきえて(ロマンス)」「私を責めないで」などがある。

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反戦歌「仕事の歌ドゥビヌーシカ)」
 村の地主に対する農民の一揆は、小規模で自然発生的なものが多かったが、それが隣の村へ、そしてまた次の村へと波及してくると、だんだん規模が大きくなり、地主たちの恐怖や悩みも深刻なものになってくる。また1881年、テロリストによってアレクサソドルニ世が暗殺されたり、マルクス主義が民衆の中に普及し、1901年に社会革命党が結成された頃には、革命闘争としての性格をはっきり持つようになってきた。そうした中でいろいろな革命歌が生まれたし、かつての囚人の歌が盛んに愛唱された。中には歌詞が改作されて革命的要素をもってきた民謡もある。日本でもよく知られている「仕事の歌」など、その代表灼なものといえよう。
 この「仕事の歌」は1865五年の「目覚時計」誌に掲載されたボグダーノフの詩「ドウビーヌシカ」が民謡化されたもので、ドゥビーヌシカとは船の荷揚げや、綱を引くろくろ(轆轤)の軸木に使われた樫の丸太ん棒のことである。この歌は70年代に入ってからオリヒンによって改作され、1905年頃から革命歌として歌われた頃には、ますます革命的内容をもつようになった。本来の歌詞の大意を紹介しておきます。
 私は故郷で喜びや悲しみをうたったたくさんの歌をきいたが、その中の一つが私の心にやきついて離れない。それは労働者のアルチェリ(組合)の歌であった。
 祖父から父へ、父から子らへと、その歌は遺産として引き継がれてゆく。そして働く力が尽きようとしたとき、私たちは忠実なドゥビーヌシカに助けを求めるのだ。
 私はドゥビーヌシカで荷揚げのたる木を持ぢあげながら、この歌をきいた。ところが突然、その丸太ん棒が折れて、二人の若者が押しつぶされてしまった。
 材木を積んだ船を曳くとき、鉄をきたえるとき、シベリヤの鉱山で働くとき、苦しみ悲しみを胸に私たちはこ
の歌をうたうのだ。
 ヴォルガの砂の上を船を曳ぎながら歩くとき、私たちの足は傷つき背中に血がにじむ。船をひく綱で胸は固くしめつけられてしまうのだが、そんなとき私たちはドゥビーヌシカの歌をうたうのだ。
 まだこのほかにいろいろな歌詞がある。それらは革命闘争の時期やその様相にしたがって改作され、新しく作りだされたものと思われる。帝制末期には、この歌をうたうことを禁止されたが、全ロシア人はそれに抗して、かえって広く盛んにうたうようになった。

 この「仕事の歌」を世界的に有名にしたのは、ロシアの生んだ偉大なバス歌手フョードル・シャリアピン(1873〜1938)である。どの演奏会でも好んで歌ったが、ある日ニコライニ世に呼ぱれて詰問された。するとシャリアピンはうやうやしく、「この歌はドゥビーヌシカ、つまり棒きれで民衆を馬鹿にし、あざげった歌でございます。陛下。」と答えて難をのがれ、その後も歌い続けたという話が残っている。シャリアピンは歌劇「イワン・スサーニン」のスサーニン、「ボリス・ゴドゥノフ」のボリス、「ファウスト」のメフィストフェレス、「セヴィラの理髪師」のドン・バジリオなどでは世界一と評されたし、ロシア民謡を世界各国に紹介した功績は偉大である。
 革命の翌年に人民芸術家の称号があたえられ、その功績がたたえられたが、1922年に祖国を離れ、フランスを本拠として活躍した。その後ソヴェト政府からの度重なる懇請にやっと帰国を決意するが、間もなく(1938年4月10日)パリで亡くなった。
 ロンドンの宮殿での演奏会のとき、亡命して現在アメリカにいるドン・コサック合唱団の指揮者セルゲイ・ジャーロフの小さな肩を抱いて、「金ピカの宮殿にはこりごりしたよ。村の居酒屋で一杯やりたいね。この頃ロシアのこころがやたらとうずいてきてね」といった言葉は有名である。
資料=『民族と風土のうたごえ〜ロシア民謡の歴史』(音楽之友社)著者「北川 剛」
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日本でとりかえばや物語
 トロイカ(1901年) 14頁の楽譜の歌を、皆さんは次のような日本語歌詞で歌ったり聴いたりなさっていたのではありませんか?
 ■楽団カチューシャ日本語詞は省略します。
 私も幼い頃、ラジオやテレビから流れてくる上記の歌詞の「トロイカ」を、ウキウキしながら聞き、声を合わせて歌っていました。大好きな歌でした。テンポも軽快で「四分音符=84〜88」くらいの速さだったと思います。雪の中をトロイカの鈴の音をシャンシャンと響かせながらパーティへ向かう心弾む様子を思い浮かべ、とても楽しい歌だと思っていました。
 ところが、ロシア語を学び、ロシアのレコードを聴いたり、ロシアでコンサートを聴いたりすると、どうも、妙なのです。ロシア人は、この歌を、四分音符=67くらいのスローテンポで、とても悲しそうに歌うのです。そのため、おかしな食い違いが生まれました。ロシア公演をする日本のコーラスグループが、ロシアのお客さんに喜んでもらおうと思って、フィナーレで「トロイカ」を日本流に楽しげに歌うと、客席に怪訝そうな反応が広がったり、または、来日したロシア人の歓迎会で、日本側が、これまた喜んでもらえるに違いないと思って、この歌を日本語で速いテンポで歌うと、なんだか相手は戸惑って、ちょっと白けた雰囲気になってしまう…などの例です。
 それもそのはず、この歌のロシアの原曲は、メロディーはそのままながら、内容は、絶望的なほど悲しい失恋の歌だからなのです。
「赤いサラファン」は日本で寸法が短くなり、「仕事の歌」は日本でメロディーが変化して少し長くなり、そしてこの「トロイカ」は、日本へ渡ってきたら、歌詞の内容とテンポが似ても似つかぬ別物に変わってしまったヤヤコシイ例です。日本へ紹介されたロシアの歌のほとんどが、原詞に忠実でしかも大変美しい日本語の名訳がつけられ歌われてきたことに感心しますが、この3曲だけは、「日本へ来たらこんなに変身」した例外的な御三家です。

 なぜ、そんな間違いが生まれたのか? ロシアには「トロイカ」に関する歌が多過ぎることも、原因のひとつではないかと思います。3頭だての馬橇トロイカが、郵便配達、宅急便、タクシーを兼ねる駅逓馬車として使われた18世紀から、庶民にも馴染み深いトロイカはさまざまな詩になり、唄に歌われました。特にデカプリストのシンパだったフョードル・グリンカが1825年に「勇ましいトロイカが走っていくよ」で始まる詩を発表したのを皮切りに、以後立て続けにトロイカを扱った詩が続々と書かれました。ざっと挙げただけでも、
@ 「トロイカは走り、トロイカは跳ねる」 1834 P.ヴャーゼムスキイ
A 「鈴は響き、トロイカは走る」 1839 N.アノルジスト
B 「鈴は響き、トロイカは走る(愛国版)」 1848  G.マルイシェフ
C 「小鈴は同じ調子で鳴り渡る」 1840年代末  I.マカロフ
D 「俺はボルゾイ犬をトロイカにつなぐ」 1870 ファジェーエフ
E 「それ行け、トロイカ」 1901 M.シテインベルグ
F 「郵便馬車は走っていくよ」 1901 作者不詳
G 「鈴が、小鈴が鳴り響く」 1901 スキターレツ

 これらが、さらにいくつもの替え歌となって歌われました。日本で「トロイカ」という題でお馴染みなのは、実はこの内のFの「郵便馬車は走っていくよ」なのです。15頁に拙訳詞を載せましたが、恋人を奪われた馭者が、客に悲恋のいきさつを物語るという内容で、詩句はグリンカの「勇ましいトロイカが走っていくよ」の替え歌の趣を持っています。
 ところで「雪の白樺並木…」という日本語訳は一体どこから出てきたのでしょう。まったくの創作でしょうか。上記@の「トロイカは走り、トロイカは跳ねる」を直訳してみると、
トロイカは走り トロイカは跳ねる
ひずめはほこりを 巻き上げる
鈴は泣き 笑い 鳴り響く
  彼方に大きな村が 見えると
馭者はたちまち 生き返る
勇ましい歌を 大声で 歌い出す
  どうどう! 突然トロイカは止まった
見慣れた玄関先で
娘が飛び出てきて 若者にキスをする

 そして毎回「さあ行こう さあ行こう 彼女のもとへ」「愛するあの娘のもとへ」というサビが続くのです。
 いかがでしょう? どうやらFの「郵便馬車は走っていくよ」のメロディーに間違って@の「トロイカは走り、トロイカは跳ねる」の訳詞を付けてしまったのが、日本の「トロイカ」では無いだろうか、というのが私の推論なのですが…。
資料=「続ロシア愛唱歌集〜トロイカから私を呼んでまで」2004年(東洋書店)著者「山之内重美」
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