■ぼくは今まで、自分の作品が歌われる時、ある種の「空虚さ」に身ぶるいを覚えたことは、一・二度ではなく、もう創作などという能力以上のものを止めてしまおうと、思いつづけてきました。 創った時のイメージと、表現され消化(?)された時の感覚との隙間風を身に浴びる矛盾は、その歌が歌われれば歌われるほどひどくなり、作品の貧困さをぞっとする自己嫌悪感の中に感じるだけです。
今年の九うた(九州のうたごえ)創作曲のタイトルに”いのちの充実感を盛ろう”と云う小文を書いたのは、自分を含めて、うたごえ創作曲の「明るい空虚さ」からの脱皮の必要性を身にしみて感じているからでした。
流行歌がセンチメンタリズムをくり返すのと同じように、うたごえの創作曲も打ち破らねばなりません。誰も作ってくれないから、作り出した方がよいというヘンテコな理屈をやめることにしました。
うたごえ運動と無関係の創作活動は、ぼくらには意味のないことですから、運動をどうとらえるかによって、創作のほうこうなりスタイルなり決定づけられてゆくのは当然ですが、現状は、その方向やスタイルそのものが創作の内容と表現をかたよったものにしているところが問題点だと思います。詩の長さ短さより、@それが労働者の現点を的確にとらえているかどうか、A運動として発展させられる要素を持っているかどうか、ということを常に考えています。 ●1959年11月 「森田ヤエ子への書簡」より・・・ |
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