とっぷ おけら歌集 荒木とっぷ 荒木年譜 文献目次

 荒木栄物語 「関 忠亮」 

 その1
 その肩は労働でよじれ 指は貧乏で節くれだっていたが
 そのまなざしは まっすぐで美しかった
◇いろいろな行事や集会で、あるいは折にふれてうたう歌のなかから、荒木栄さんの作品を数えあげてみましょう。同時に、他のひとの作品で知っているものと比べてみると、荒木さんの作品が圧倒的に多いことに気がつきます。 彼の作品がなぜそれほど好まれるのか、荒木栄さんの歩いたみちをあらためてたどりながら、今日から明日へ、一九七〇年にむけての活動に役立つものを見つけたいものです。

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炭鉱社宅で生れる
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 荒木さんの父の安太郎さんは、炭鉱の水門や機関車の運転をしていたひとで、栄さんは男五人、女四人の兄姉の末っ子として、一九二四年十月十五日、三池炭鉱の社宅で生れました。こどものころから音楽好きで、お父さんにねだってヴァイオリンを買ってもらったりもしています。学校の成績もよく、高等小学校を出てからは三井三池製作所の養成工となり、やがて熟練した仕上げ工(鉄鋼労働者)となって働らきました。お母さんは日本の初期の看護婦の資格をもつひとで、また、おどりの名手でした。お父さんも民謡が好きで、それだけに家庭は明るく、そのうえ栄さんはいつもおどけては家族を笑わせるのでした。
 軍隊にもとられますがすぐに敗戦となり、除隊した彼は間もなく義姉(戦死した兄の妻)と結婚しています。それからの二年間は、キリスト教にひかれて教会にかよい、また「三池製作所混声合唱団」にも入ったのですが、信仰も技術偏重の合唱団の傾向も、荒木さんを満足させるものとはなりませんでした。
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あたらしい時代に
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敗戦(一九四五年)からの二、三年という時期は、日本が、全体におおきくゆれうごきながら、あたらしい時代をむかえた時です。
 日本の古い支配権力(日本帝国主義)は敗戦で崩壊し、そして、日本のあらゆる職場のなかからは、組合結成のたたかいや、就労条件の改善、賃金値上げのストライキなど、働らくものの利益を実際にたたかいとる力、民族の独立と民主主義をまもってゆこうとする力が、生産管理斗争や産別会議結成の動きにまとまりながら、あふれるようにほとばしりでた時です。
 しかし、アメリカ占領軍と、占領軍によって再建きれた戦後の支配勢力にとっては、国民の要求をある程度みとめなければ「民主」を名目とした支配体制を保つことはできないものの、要求が実際にたたかわれたり、国民大衆の結集力、組織的となってつみあげられることは、なによりも自分たちにとって「命とり」となることがらです。
 アメリ力占領軍は、四七年に産別・総同盟、全官公庁をはじめほとんどの全国組織が参加した二・一ゼネストを禁止し、日本の民主化と非軍事化を内容としたポツダム宣言をふみにじって弾圧にのりだしましたが、四九年一月の総選挙で日本共産党が一躍三十五議席を獲得し、一方では中国革命が勝利する、という労働者階級の力のおおきな前進にたいして、占領軍と日本の支配権力は「松川事件」その他の謀略事件までつくりあげて、露骨に桃戦をはじめました。
(その後の民主的なたたかいによって、事件の一つひとつの無実が明らかにされています)
 こうして、支配階級に都合のよい「民主主義」にするのか、国民自身のための真の民主主義をうちたててゆくのかという大きなたたかいが、はじまったのです。
 この大きなたたかいを中心とした、たくさんの要求と斗いに役立つ文工隊活動の一つとして中央合唱団は創立されました。中央合唱団と、つづいて生れた関西合唱団や名古屋青年合唱団は、演奏するだけでなくあらゆるところに「うたう会」をつくり、このたたかいと大衆自身の生活のなかに活動を定着させ、間もなく、全国的な統一組織としての巨大なうたごえ運動を確立してゆきます。  (つづく)
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 その2
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最初のはげまし
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三池製作所混声合唱団に不満を感じていた荒木さんは、間もなくここを離れますが、この合唱団にいる間に"炭鉱ばやし"(一九四九年)などいくつかの作品をつくっています。後に一九五三年の「九州のうたごえ」で、この"炭鉱ばやし"が発表されてから、彼は「歌は多くの人びとの気持ちになってつくるとき、生きたものがうまれる、とかんがえてたことが実現してうれしい、そしてはげまされた」と語っていますが、歌を真に大衆自身のものとすることを、彼もまた大牟田で、素朴に切望していたのです。
 五〇年六月、アメリカは朝鮮戦争を始め、この侵略に呼応する政策によって、四十九年には公務員を中心とした企業整備(三十七万人)が、五〇年には全産業にわたるレッド・パージ(約一万二千名)が強行されました。戦斗的な労働者が一拳に経営から追放されたことは、民主勢力の全体と労働組合運動にとって、おおきな打撃になりました。しかし、やがて五二年には炭労、電産の六十三目の賃上げストを皮切りに、この打撃から立ち直った労働者は、五三年には日産自動車が斗争にたち、つづいて三池炭鉱もまた百十三日斗争に入り、首切りを撒回させました。

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三池百十三日斗争
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  荒木さんは、「大牟田うたう会」や「蛮声会」(炭鉱労働者でつくられた男声合唱団)の活動をつうじて、この百十三日斗争に参加します。はじめて参加した斗争とうたごえ運動が、彼にあたらしい眼をひらかせていったのです。
 つづく五三年から五七年にかけては、内灘基地反対斗争、米軍管理の日鋼室蘭のストライキなど、直接米軍に対する斗争がおこり、国民的な抵抗運動として「原水禁運動」もはじまりました。また、国際的な平和勢力が朝鮮戦争を休戦させ、全面戦争となることをくい止めたのです。
 「反共」攻撃が、広はんな勤労大衆の生活と権利にたいする攻撃の先ぶれであることを自覚した人びとが、勇敢に立ちあがった時だったのです。「諸国民の平和強化のための国際レーニン賞が、うたごえ運動の指導者関鑑子さんに贈られたのもこの頃で、うたごえ運動はさらに高まり、さらにひろがってゆきました。
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ガキ夫将と呼ばれて
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 うたごえ運動は「実行委員会」による運営を確立させ、総評と提携して全国オルグを派遺し、三池炭鉱のなかにも新しい斗争歌や大衆歌曲がどんどんひろまりました。その力は、"炭鉱ばやし"の好評で多少慢心していた(誰にもありがちなことですが)荒木さんに、次々にあたらしい活動と課題をなげかけたのです。当時、荒木さんは大牟田青年合唱団(センター合唱団)と地域の水曜コーラスの指導とあわせて、大牟田地区合唱団連絡協議会を結成するためにかけまわっていました。彼の行動は情熱一点ばりで、かけひきや、腹芸などののぞめない人柄であり、年長者であるところから、仲間は「ガキ大将」あるいは「よろず相談所」と呼んで信頼するのでした。社宅を激励する製作所の合唱演劇クループ「山彦の会」のためにつくられた"もやせ斗魂"や、水曜コーラスの活動家の結婚に贈った"星よお前は"、そして"沖縄を返せ"など、とくに五六年には年間九曲を発表します。
 "星よお前は"が急速にひろまるなかで、水曜コーラスの会員も増え、荒木さんは、創作が活動の機関車となることをあらためて知りますが、運動全体もまた、"大衆の生きいきした感動をうたいあげるのは、大衆自身である"ことに注目し、あたしい創り手を育てる活動に積極的にとりくむのでした。 (つづく)
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 その3
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あらしに抗して
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 うたごえ運動が全国にわたって野火のようにひろがってゆくのを最もおそれたのは、アメリカと日本の支配勢力でした。五〇年六月にアメリカ財閥の機密費によってつくられた国際文化自由会議(事務総長ニコラス・ナポコフ)は、五五年にはビルマで「新植民地主義と植民地文化をアジアに確立する」ことを提唱する会議をもち、工作を開始します。この会議との連絡口になる国際文化交換協会(会長:藤山愛一郎)や日本芸能文化センター(芸文)など、国内の組織化をめざす団体があいついでつくられ、あわせて音楽モデル県の設定(例、群馬県)や、大衆運動に対抗するスポーツの利用の政策など、国民の生活とたたかいから音楽(文化)を切りはなそうという攻撃が、あらゆる手段をとって始められました。(一時は「自民党のうたごえ学校」などというのまであらわれ、明本京静、安西愛子というひとたちがかり出されました)

 働くひと自身のサークルは、歌の好きなものが漫然と集まっただけでは、その内容も、活動も、会場も、だれからも保証されないことを年ごとの全国の経験から痛いほど学びとったうたごえ運動は、歌いたい、という要求を守るためにも、意志と組織をつよめ、地方と産業の全体に、しっかりと根をおろす活動を積極的、計画的にすすめました。

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あたらしい足場
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 このような活動の推進力となる「センター合唱団活動」をつうじて、荒木さんは全日自労の斗争に協力し、教職員の民主教育を守る勤務評定反対の斗争にもとりくんだのです。""(五七年十月)や"子供を守る歌"(五八年九月)は、この全日自労と教員の斗争のなかで生れました。荒木さんは、直接たたかいに参加して創作をすすめるなかで、たたかいの本質を知ることと、たたかうもの自身の心と発言を大切にしました。二つの曲は、作調を全体で討議し、作曲も、みなでうたって直してゆく、という集団的な方法で完成させる努力をしたのです。荒木さんがこの時に、自分の発想にだけたよるのでなく、たたかう仲間との信頼のうえに歌を仕上げる、という創作態度に確信をふかめたことは、つづく三池斗争での活躍を保証するあたらしい足場になったといえるでしょう。

 五八年から六〇年かけては、警職法や安保条約の改悪など、支配勢力の軍事的な準備を強引におしすすめた時で、これに対して、「核武装阻止、民主主義擁護国民大行進」「戦争と失業に反対する大行進」「松川大行進」などの、国民の民主主義と生活を守るたたかいが、一つひとつの斗いの共斗組織を足がかかりとしながら前例のないおおきな規模をもつ安保斗争へと発展した時です。

 三池炭鉱では、三池製作所を鉱山から分離しようという会社側の策動とあわせて、五九年の夏、千二百七十八名の指名解雇を発表、三池の労働者は、合理化反対の斗いに立上りました。
 この三池斗争(最強を誇る三池労組の破壊)を安保斗争に結集した全国の民主勢力が支援して、たたかいはかつてない大斗争となりみごとな団結すばらしい規律が発揮されます。そして、第二組合による分裂攻撃、警官隊から海上自衛隊までくりだす弾圧、右翼の暴力団による殺人と対決していったのです。
 製作所は第二組合にされますが、荒木さんをふくめた二十九名は三池労組にとどまり、最後まで炭鉱労働者とともに斗う決意をしました。当時の荒木さんについて、親しい友人はこう語っています。「労働者としての斗いと、うたごえ運動が彼を変えていったのです。とくに五七年日本のうたごえ祭典に代表として参加してから、共産主義の思想にたたないかぎり、大衆のためのすばらしい歌をつくりだすことはできない、と自覚するようになり、五九年二月に入党しました。三池大斗争の直前でした」。 (つづく)
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 その4
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団結ガンバロー!
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 六〇年五月、裁判所は会社側の要求をいれて、石炭を貯蔵するホッパー附近の立入りを禁止。三池労働者は、争議中に石炭を運びださせぬためのピケをはります。ホッパー前では一万数千の警官と二万の労働者が対峙、七日には、全国からあつまった労働者・市民十万人によって、「三池を守る大集会」がひらかれます。
 日本のうたごえ実行委員会は現地指導部を設け、延べ一万名におよぶ三池共斗うたごえ行動隊が活動しました。国家権力と真正面から対決し、一歩も後退せずに斗いぬいた巨犬なエネルギーと結合する。このうたごえ行動隊の活動のなかで、荒木さんは、民謡"おてもやん"にまなぶ"どんと来い"をはじめ、社宅の主婦や現場の労働者の心と言葉をそのまま生かした"三池の主婦の子守唄"や"がんばろう"など、十三曲を発表していったのです。

 この三池斗争は、炭労大会(九月)の「条件付事態収拾」の方針による交渉がつづき、十一月一日に組合は千二百名の解雇をのんで争議は一応おわり十二月就労につきました。しかし交渉の条件は無視され、第二組合との差別待遇が露骨におしつけられるため、一部には敗北感さえ生れます。
 荒木さんは、交渉がすすむにつれ企業別組合のもつ斗いの限界を口惜しくおもうと同時に、仲間の気持ちを引きたてようと"仲間のうた"(六〇年十二月)をつくります。そしてさらに、三池斗争をうけついだ大牟田の各産業での、たたかいの先頭にたつ労働者の気持ちを"心はいつも夜明けだ"(六一年五月)とうたいあげました。歌詞の「そうだ今日もガンバロウ」は、また当時の各産業にわたる合言葉だったのです。(また、この歌は"労働者はまだ"と題して五六年に試作した発想を、根気よく数年後に完成させることにもなるのでした。)

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準備と調査をつくして
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 "地底のうた"。安保斗争と三池斗争に結集された労働者階級と国民のエネルギーを結晶させた革命歌曲、ともいえるこの歌は、争議のあともひきつづく合理化攻勢と差別待遇とに斗いながら、安保体制と政暴法粉砕をめざす三池の労働者の、第二組合の労働者とも共通するたたかいの方向と展望をもって制作されたものです。この男声のための合唱組曲は、全国にさきがけて「中心合唱団の倍加」を達成した三池宮浦合唱団第二回発表会のために依頼されたものですが、その創作は、三池の多くの労働者の協力で、現場のなまなましい詩と発言をのこらずあつめ、同時に、二百八十二日におよぶ三池斗争の真のすがたとたたかいの方向を追求してゆくことから始められたのです。こうした精力的な準備は、当時、日本共産党のあたらしい政策と方針を、いち早く実践にうつした地方機関の熱心な協力と指導によって達成されてゆきました。この組曲の作曲は、ほとんどひと晩で完成されています。よく調査され、しっかりと内容をつかんだものが、感動としても、作品としても、短時間でまとまる例として貴重です。
 荒木さんは、その後も約十曲を創作していますが、なかでも"黒潮のうた""この勝利ひびけとどろけ""わが母のうた"などは、"地底のうた"とともに、今までの全生活の体験を生かした密度と豊かさに貫かれています。
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いまも、これからも
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 荒木栄さんは、一九六二年十月二十六日、午後二時、胃ガンのために惜しくも三十八才の生涯を閉じました。
 荒木さんの歌が、今もおそらくこれからも好んでよくうたわれる、ということはけっして偶然ではありません。あらゆる時期の代表作は、荒木さんが、共産党員として、うたごえ運動の活動家として、熱練した仕上げ工として、根かぎりの力でたたかい、うたいあげていった歌であり、その一つひとつの事実にとりくむ基礎のちがいと、思想のちがいが、ゆるぎなく働らくものの未来をきりひらいてゆく、この数々の歌を生みだして
いった、ということを物語ってくれます。 (おわリ)

■冒頭のことぱは三池斗争創作曲・第一集にかかげられた詩「やがてくる日に」による。

尚、この「荒木栄物語」は、うたごえ新聞(年月日不明)に掲載されたものを転記したものです。
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五線紙に労働者の心
―たたかいの中で作曲しうたうー

■ 荒木栄は大正十三年(1924)、大牟田市の三池炭鉱社宅で生まれました。父の安太郎さんは、三池港水門の運転や機関車の運転をして労働者。きょうだいは男五人、女四人で彼は男の末っ子でした。小学校時代から優等生で、卒業のときは代表で答辞を読んだほどでした。
 音楽の好きなおとなしい少年、荒木栄は十五歳のころ、父にねだって当時十三円もしたバイオリンを買ってもらいました。この頃のバイオリンの勉強は、のちに彼が作曲の仕事をする大きな素地を作ったようです。
 高等小学校を出ると三井三池製作所に養成工としてはいり、それからなくなるまでの二十三年七ヶ月を、熟練した仕上げ工として働らきつづけたのです。
 軍隊に取られてまもなく敗戦。復員した彼は「日本は負けた。これからどうなるかなあ」と気ぬけしたようになったといいます。キリスト教の教会にかよったり、三井三池製作所混声合唱団にはいったり、生きる方向を求めて荒木栄は悩みつづけました。
 三井製作所混声合唱団はNHKのコンクールで二位になるほどの技術水準の高い合唱団でしたが、かれはこの合唱団に満足できませんでした。労働者の生活からはなれたうたを、ただきれいに合唱するだけでは満足出来なかった…荒木の栄の音楽にたいする姿勢は、このころすでに作られていたといってよいでしょう。
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■自分で作詩してメロディーつけ
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 合唱団をやめた荒木栄は、1949年ごろから一人で歌をつくりはじめました。『ひとつ星の歌』『うたおうよおどろうよ』など、彼は自分で詩を作り、メロディーをつけました。しかし、このころの作品は、まだかれの心の中の願いをひそかにうたいあげるのにとどまっていたようです。
 そのなかも初期の代表作といわれる「炭鉱ばやし」は、民族的な盆踊り歌の形式と音階を取り入れた曲です。「みんなのうたえるものを」……荒木栄はこの作品を作るなかで、音楽はみんなのものだ、という考えを強くしていきました。
 このころの荒木栄に強い影響を与えたのは、全国にひろがってきた“うたごえ運動”でした。レッド・パージ、朝鮮戦争…。激しい時代の変化と弾圧の中で、一時後退した日本の労働者階級は一九五二年頃からふたたび戦線をたてなおし、たたかいを再開しました。
 一九五二年の炭労、電産の六三日にわたる賃上げスト、五三年には三池炭鉱の労働者は百十三日間の闘争で首切りを撤回させました。大牟田うたう会、蛮声会(三池労働者の男声合唱団)の指導をしはじめた荒木栄は、ストライキ成功の大きな力となった炭鉱の主婦の組織“炭婦協”のために行進曲を作りました。
 ♪かたき土を破りて 
  民族のいかりに燃ゆる島 沖縄よ
  われらとわれらの祖先が
  血と汗をもて 守り育てた沖縄よ
  われらはさけぶ 沖縄よ
  われらのものだ 沖縄は
  沖縄を返せ 沖縄を返せ
 『♪〜鉱山(やま)に働く わが夫 はげしきつかれしのびつつ〜♪ という「炭婦協行進曲」をうたう主婦たちの卒直な批判をうけながら、彼は創作の新しい道を発見していきます。そして、荒木栄は一九五六年には『もやせ闘魂』『沖縄を返せ』『星よお前は』...と九曲もの歌を生み出しました。
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■しいたげられた人の気持ちを
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 激しいたたかいの中で、「音楽はおれたちのものだ。おれたちの気持ちをどううたうか」と考え続けた荒木栄は、このたたかいのなかで生まれた歌で大きく飛躍しました。
 荒木栄と共にたたかってきた九州のうたごえ事務局長魚住清文さん(40)はこう言っています。
「荒木さんは生前、“苦しんでいる人がいれば、その人の心をうたいたい。ぼくの頭の中には星がいっぱいあるんだ。その星をみんなとらえて音楽にしたいんだ”といっていました。彼の中には“おれは作曲家になるんだ。おれの曲でたたかいを鼓舞するんだ”というような指導者意識はまったくなかったですね。あらゆる人々の、しいたげられ苦しめられている人民の気持ちを歌にして、ともにうたおう...というのが荒木さんのいつわらない感情だったと思います。」
♪〜星よおまえは 知っているね
   ともに楽しくうたっていたが
   仲間はなれて 仲間はなれて
   遠くに行った
   ひとみまどかな ひとみまどかな
   あの友のこと
   星よおまえは知っているね
 二期会の滝沢三重子さん、合唱団白樺の松村伸子さん、フィリップスの瀬間千恵子さんなど、専門家にも愛され、さまざまなステージでうたわれてきた『星よお前は』。
 この曲も荒木栄の作曲家としてのすぐれた一面を表しています。人々の持っている音楽的な要求、あるときはたくましく、またあるときはしみじみと、人びとはいろいろなときに音楽を望みます。
 うたう会の活動家が結婚して大牟田を去るときに作ったこの『星よお前は』は、仲間をおくる荒木栄の美しい感情が、叙情的な旋律にのせてみごとにうたわれています。 
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■自労の人たちの協力で作曲
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 こうした労働者のたたかいとともに前進した荒木栄は一九五九年二月、日本共産党に入党しました。このころ三井独占資本は、三池労組の力を弱めるために炭鉱と製作所を分離し、「合理化」をすすめるなかで組合の分裂を強行しました。
 二十数人の仲間と製作所労組の分離に反対して三池労組に残った荒木さんは「アカハタ」号外やパンフレットを持って社宅をまわりました。いつもにこにこしていてだれもが話しかけたくなるような荒木栄は、職制の奥さんにもアカハタを売ってきては「誰でも買うよ」細胞の人たちを励ましたのです。 このころの作品に『大行進のうた』『どんと来い』などがあります。
 全日自労大牟田分会の人たちが作詩したこの歌は、筑豊の中小炭鉱閉山のつづくなかで起こった失業反対の大行進のために自労の人たちの協力で作曲され、荒木栄のすぐれた作品の一つに数えられています。
♪〜ふみにじられた者の
  なおほこり高い足音をきけ
  ふぶきも 嵐も
  はばむことはできない
   (『大行進のうた』)
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■たたかいの合間にも五線紙手に
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 そして1959年二月、三井独占資本は三池炭鉱千二百人のクビキリを発表し、当時の岸自民党内閣は日米安保条約の改悪をはじめました。荒木栄は三池の大闘争のまっただなかで作曲を続けました。ホッパー前の家族ぐるみのすわりこみのあいだにもかれは五線紙を手に歌を作りました。
♪〜雨の降る夜はつらかろね
  オッパーにらんで 夜明けまで
  無口のあんたが火をかこむ
  ビニール小屋にとどけたい
  腹巻 綿入れ たまご酒
 『三池の主婦の子守歌』はこうして生まれました。「ゆっくりとたたかいのリズムをもって」と指定されたこの歌は、日本の五音階と民謡的なリズムをとり入れた曲です。うたごえ行動隊の手で全国にひろめられたこの歌は、三池のたたかいを見守る全国の労働者達に大きな連帯のよびかけになりました。
 主婦たちのスクラムのなかでそのことばを聞き、すぐ歌にしていった荒木栄。ここには日本の歌曲が忘れがちだった日本語とメロディーの関係についても深く考えさせる内容をもっています。

 
 魚住さんは荒木栄が日本語のアクセントについて真剣に考えていたと、こんなエピソードを話してくれました。
「荒木さんが最初の手術で久留米医大病院に入院していたときのことです。ちょうど詩人の森田ヤエ子が見舞いにきていました。ところが寝ている荒木さんは森田さんをつかまえて論争をしているのです。日本語の韻律(いんりつ)とメロディーについてです。わたしもついそれにまきこまれてしまいました。かれはいつでも日本の民族的な旋律とことばのアクセント、民族的なリズムを追求し、そこから音楽を作ろうとしていたんです。」
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■「心に夜はない」の名曲が…
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 警官隊から海上自衛隊まで出動し、右翼暴力団の襲撃、中労委のごまかしあっせん…とさまざまな攻撃のなかでたたかわれた三池闘争は、千二百人のクビ切りを阻止することはできませんでした。 そのため労働者の一部には敗北感が生まれました。『がんばろう』を作った荒木栄はこういう沈滞の中で『心には夜はない』という名曲を生み出しました。
 この歌は全国の若者達のあいだに爆発的にひろがりました。労働者階級の底抜けの楽天性が、若者たちの心をしっかりとらえたのです。ついで一九六一年、三池宮浦合唱団の仲間たちと、男声合唱組曲『地底の歌』を作った荒木栄は、この曲で日本の炭鉱労働者のたたかいをうたいあげました。この曲を聞く人はみな「胸がツーンとしてどうしても涙が出ちゃう」といいます。 ♪〜夕日がよごれた工場の屋根に
  沈めば おれたちゃ町にちらばる
  若者や娘たちの 胸に灯をともしに
  心にゃ夜はない いつも夜明けだ
  心にゃ夜はない いつも夜明けだ
♪〜筑紫野の みどりの道を
  すすみゆく十万の戦列
  赤旗は春風に はためき
  うたごえは 空にこだまする
  基地板付の包囲めざし
  すすみゆく われらの戦列
 一九六二年三月二十五日、板付基地反対の十万人大集会に参加した荒木栄は『この勝利ひびけとどろけ』を書きました。そしてかれは♪〜南ベトナムへ 南朝鮮へ この勝利ひびけとどろけ...と、ベトナム、朝鮮人民に深い連帯の気持ちをうたいました。
 職場で、町で、学校でこつこつとたたかい、未来をきりひらく準備をしているそんな人たちの気持ちをうたった『仲間のうた』。 ♪〜重たい雪を真っ白にかぶった
  あの炭鉱(やま)にも この町にも
  そのどこかで どこかで
  春を待つ準備をしている
  小さい草たちが 草たちがいるよ
♪〜有明けの海の 底ふかく
   地底にいどむ男たち・・・
 日本の労働者階級の生み出した名曲としてこの歌はいつまでも残るでしょう。
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■労働者の天下は必ず来る
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 しかし、このころから荒木栄の体はすでにガンにおかされていました。肝臓ガンー現代の医学では不治といわれている病気が革命的労働者作曲家の生命をちぢめたのです。危とく状態になって一ヶ月、荒木栄はがんばりつづけました。
♪〜雑草(あらぐさ)の 実がうれて
   土深く芽ばえる朝に
   ああ わが母こそ太陽
   たたかいを育てる太陽
   雑草のたくましさ
   ふまれてはのびひろがって
「死と向かい合ってみて、労働者の天下が必ずやってくるという確信がますます強くなった。それがうれしい」――こう言った荒木栄は一九六二年十月二十六日、「日本共産党ばんざい、センター合唱団ばんざい、かあちゃん、苦労かけてすまん」と言い残して亡くなりました。

 遺作は日本共産党を“わが母”にたとえた『わが母の歌』でした。 作曲家諸井昭二さんはこう言っています。
「荒木栄は、まちがいなく日本のもっともすぐれた作曲家の一人です。スクラムを組んでうたうときも、一人でうたうときも、かれほど働く人間の感情をすなおにうたえる人はないでしょう。日本人の民族的な音の感覚をもとにして、かれは働く人たちのあらゆる感情を歌にしました。かれの仕事は、いま労働者の創作活動にうけつがれ大きく発展しています。わたしたち専門家も荒木栄から学びとるものはたくさんあります。かれの音楽はきっとの本の民族的、民主的な音楽の大きな土台になり、みんなにうたいつづけられるでしょう」
尚、この文章は、うたごえ新聞(年月日不明)に掲載されたものです。
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荒木栄について(上)
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宝木  実  うたごえ新聞291号(1967/12/20)
 以下、一九六七年日本のうたごえ創作発表会特別企画荒木栄プロ解説に加筆、補充したものです。

 日本のうたごえ運動が生んだ、最初の労働者作曲家、荒木栄は一九四九年から亡くなるまでの十三年間に、七十数曲の歌曲を作りました。その歌は、労働者階級の思想と確信をうたい労働者の闘いをはげます不屈の意志と情熱にあふれています。

 彼の生涯と作品を見るとき、労働者としての闘いと、うたごえ運動を通じて、労働者階級にみちびかれた彼自身の普段の自己変革の闘いが彼をかえ成長させていったことがわかります。荒木栄は自分の前進のあとを次のように語っています。
 『一九五三年第一回九州のうたごえで、”炭坑ばやし”を発表して以来、創作の根拠を個人の感情、イメージから、大衆の立場、階級の立場にかえることを、その後のうたごえ運動で学んだ。
 しかし立場はかわったが、作品を作る点では、やはり主観や自己の才能にのみ依存するという弱点をぬけきれなかった。また自分が合唱団の指揮者という立場から、自分の作品を一方的におしつけるという態度ももっていた。三池闘争の中で本当の大衆的な作品、創作態度を学んだ。

 とりわけ”主婦の子守唄”を創作したとき、主婦達の実にたくましい闘魂、ゆたかな階級的愛情につらぬかれたことばをそのまま詩と曲にまとめたこと”ガンバロウ”を創った時、ホッパーをはじめ全戦線での闘う仲間との交流や、うたごえ行動隊の意見や創作班のきびしい批判、討議が創作の肉づけになった経験をとおして、大衆の歌をつくることの厳粛な創作態度と客観的な高い思想性が不可欠であることを知った。

 さらに、民族の音楽を継承し、労働者の立場から発展させてゆくという問題に真剣にとりくんできた。
 ほんとうに労働者のひとりとして息づき、うたうという態度をはなれては、大衆に受け入れられる歌は生み出せないことを知った。大衆の心をうたいあげると同時に、大衆に迎合するのではなく大衆とともに高まっていく作品に立ちむかうことである。そのためにはどうしても民族の音楽をもっと深く、理論的につかむこと、自らが高い思想性とその表れとしての表現力を身につけること、音楽の学習を系統的に、集団的に学ぶこと、創作活動を集団として展開すること』
 このようにいっています。そして、三池、安保斗争の斗いの中ですぐれた作品を生みだします。

▼誰が誰のために、どのような歌を
 この間の荒木栄の作品にはめざましい発展と成長がみられます。職場の労働者が真に労働者階級の立場に立った時、いかに生き生きと深く創作をつくり出していくことができるか、また、系統的な普段の音楽学習がいかに重要であるかを示しています。

 「誰が、誰のために、どのような歌をつくるか」の原則も明らかにし、集団創作の方法を全国化するきっかけとなった第一回全国創作活動者会議(一九六二・四)に参加した荒木栄は創作活動の経験を報告すると共に自らも集団創作に加わり、その感想を次のように語っています。
 『私はもっとたくさんの書き手をつくらねば………と思いつづけながらも、それを実践にうつすことの努力をしなかったことを痛切に反省させられました。同時に、うたごえ運動が要求する創作の量の拡大と、質の向上について「こうすればいい」という確信をもつことができました。……略……今こそ、”一人の創作意欲を万人の創作活動に” ”ひとりの感動を万人の心臓の鼓動に”してゆきましょう』
 彼は、この課題を”この勝利ひゞけとゞろけ”および”地底の歌”で実践して行きました。

▼安保斗争以後
 一九六〇年以後、安保斗争の教訓に学んだ日米反動は、民主勢力に大々的な思想文化攻勢をかけてきました。何よりも安保反対勢力の統一をぶちこわすことに全力をそそいできました。

 その攻勢の影響を受けて、三池斗争、安保斗争を敗北とみる見方が一部にあらわれ、アメリカ帝国主義の評価を中心に日本の労働運動、文化運動、民主主義運動全体に右翼的な潮流による分裂の動きが強化されてきました。
 それは国内だけでなく、国際的な革命運動、民主運動、平和運動にも発生してきました。三池、安保の斗いを正しくひきつぎ、この分裂策動をうち破り、統一の斗いをおしすすめていく任務が日本の労働者階級に課せられました。

 「うたごえは平和の力、安保破棄のうたごえをさらにたかめ、日本を平和のとりでに」をスローガンに開かれた一九六一年日本のうたごえ祭典は、歴史的な安保斗争三池斗争の経験と、六一年夏の中国訪問公演およびそれを支えた国内の共同の学習・活動・演奏の経験とが統一され、画期的な高まりを見せました。祭典直後、荒木栄は次のように語っています。
 『うたごえ運動が人民の音楽運動として展開されている。ほんとうに音楽運動らしくなったといえると思います。三池斗争の教訓を正しく発展させている大牟田ではいま、「企業合理化反対がんばろう」「二つの的を明確にしていく統一戦線をきずきあげてがんばろう」これをたたかっていく若ものの気持ちとしてぴったり結びつけて、それを農村にまでおよぼしてゆく状態がでてきています。

 しかし、ここでも中心になる活動家が統一戦線を組んでいるところ、かまえがしっかりしているところと、そうでないところでは、創作にも、演奏にも、量の拡大にも、ぜんぶ違いが出てきています。これは一貫した問題ですね。』

▼日本の労働者階級とうたごえの課題
 『統一の問題を知るためには敵が明らかにならなければならない。敵を明らかにする点で、たとえば三川の労働者合唱団が去年にひきつづいて第一位になったけれども、去年はなぜ第一位になったのかわからなかったが、こんどはずばっとわかったといっている。それは米日反動のさく取と命をかけたたたかいがくり返されているので、敵は米日反動とずばっといえたからだ。
三池では今までは、独占資本だけが敵だというように指導された研究会もあったのですが、まさにおれたちの敵は米日反動であるという日常の活動が第二組合にたいしても手をさしのべようと、統一の問題を、うたっている確信を持ってこの問題を集中的に討議しているということが、非常にたくましい特徴だと思います』

 『北海道では”黒潮の歌”というのを演奏しましたが、そのなかで二番の歌詞に、”共通の敵アメリカ帝国主義”というような歌詞があります。これはたんに中国と日本が手をつないでたたかおうというだけの問題ではなく、やはり安保斗争をたたかってきて、そのなかから、いま日本が平和のとりでになるか戦争のとりでになるか、敵との対決点での連帯の問題としてとらえていると思います。もっともっとうたごえのなかでこの点をつよめなければならないと思いますが………』(一九六一、十二、十九、二〇、アカハタ座談会「躍進する日本のうたごえ」より)

 三池、安保斗争の斗いで更に鍛えられた荒木栄は真の敵と統一戦線の方向、日本の労働者階級とうたごえの課題を更に深くつかんで行きます。日本人民の斗いは新しい段階に突入して行きます。

▼「この勝利ひびけ…」から「地底のうた」へ
 一九六二年、10万人が参加した三・二五板付大集会に典型的にみられるような、職場を基礎にして徹底的に斗うとともに、すべての動労人民を集結して米日二つの敵の売国反動政策に対決し、南朝鮮、南ベトナム人民を先頭とする世界の反帝平和の斗いと結合していくという民族的な全人民的な大集会、大デモンストレーションが発展しています。
 荒木栄は、第一回創作活動者講習会で学んだことを血肉化し、この新しい発展段階をきりひらく斗いの中から「この勝利ひゞけとゞろけ」を生みだします。そしてひきつづき、労働者階級の指導と、全職場の労働者の協力のもとに、現場でのなまなましい詩をのこらずあつめ、同時に三池斗争の深い学習をすすめて、この斗いの真のすがたと、斗いの方向をうたいあげた「地底の歌」を完成します。
 この作品の中には「三池の主婦の子守唄」での経験を更に発展させ、三池労働者の日常会話の旋律化、=労働者の生きた会話を旋律にするという苦心がみられます。 (つづく)  日本のうたごえ常任委員
作成(2008/01/18) by bunbun pagetop






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荒木栄について(下)
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宝木  実  うたごえ新聞292号(1968/01/01)
▼大衆の日常生活の中から音楽表現を
 荒木栄が必要とされる課題を、いかに大衆の日常生活の中からくみとり、音楽として表したか?また私達が大衆の声を聞く時の音楽的鋭敏さ=細かいニューアンスまで聞きとっているか?の問題をも荒木栄に学ぶ必要があります。荒木栄の音楽的鋭敏さの土台として、次の点が考えられます。
  
@ 一定限ではあるが、器楽をやったことがあること。(ヴァイオリン・アコーディオン)
A 大牟田センター合唱団の指揮者として、一定の音楽的蓄積をもっていたこと
 大牟田センター合唱団と荒木栄は一心同体の関係で、真に仲間の一人として彼自身が、(イ)うたい(ロ)つくり(ハ)ひろめ(ニ)教育する−日本のうたごえ運動の戦斗的活動家であり、そして、日本のうたごえ運動の歴史的経験、原則、音楽的成果を、日々の実践と対決する中でどん欲に学びつくしていきました。「労働者に奉仕し、労働者から学び、労働者に返す合唱団をつくろう」と大牟田センター合唱団の斗う方向、基礎が作られ、この基本方向が、実践的にも全団のものなったのが三池斗争でありました。

 三池には日本のうたごえ実行委員会現地本部が設置され、全国から延七〇〇〇名のうたごえ行動隊が参加しました。この現地本部の指導のもとに、うたごえ行動隊創作班は、
(1)創作の態度、方向を
 (イ)斗いの客観的な情勢の点からみる。
 (ロ)安保との結合として三池闘争をみるとき、民族性の立場をはっきりさせる。
 (ハ)斗いの内側での大衆の様々の感情をとらえる。
 という三つの点から、意識的な創作活動にする。
(2)大衆と直接話し合って集団的な作品をつくる。
(3)詩人、作曲家、専門家との結びつきをふかめる。

 という観点に立って活動を始めた。この結果、質的、量的に、斗いを生き生きとうたい上げ、全国に広める作品が続出した。(第一回全国創作活動者会議、創作活動の経験報告−荒木栄)

 また三池斗争以前には、荒木栄をふくめた大牟田センター合唱団の中で、次の三つの理由によって作曲という仕事を組織化する(みんなが作るという運動)という点で弱かったことがあげられています。
イ、うたごえ運動の歴史と現状の把握について指導部の見解の甘さ。
ロ、権威主義を大衆の上におくゴウマンさ。
ハ、技術指導の系統性の欠陥。
   (前文から引用)
 ここには。荒木栄が労働者階級の一員としての自覚と責任をもって、真の日本の国民音楽をつくり出すために、いかにきびしく自己に対決していたかうかがえます。
▼運動の原則をいかにつらぬいたか
 私達が最も荒木栄に学ぶべき点は「彼が日本のうたごえ運動の原則をいかに貫ぬいたか、貫くためにいかなる斗いをしたか、その原則的態度」ではないでしょうか。
 自覚した労働者として斗いの原則をつらぬくことと、うたごえ運動の原則を貫ぬくことは、彼においては一つのことであり、労働者としての自覚が強まればつよまるほど、うたごえ運動の原則を誰よりもきびしくまもり、またそのことによって、労働者としての自覚もいっそう深く、強くなっていった。
▼政治学習と音楽学習との統一
 その態度で、その立場に立つがゆえに、”大衆を主人公にする”創作活動をきびしく貫いたのであり、また創作におけるその原則を音楽的諸原則と結合して、共に正しく運用し、守りえたのではないか。

 政治学習と音楽学習を統一して深めることによって、現実をより深く、正確にとらえることが出来た、(すくなくともその努力が作品に結晶した)といえるのではないでしょうか。ここに彼の豊かな音楽性が磨かれていった最大の基礎があったといえます。
 
「日本の労働者階級の創造と日本のうたごえ運動の十数年がつくりだした、達成の頂点」をしめす革命歌曲「地底の歌」(一九六一年十一月、宮浦合唱団第二回発表会を記念し、三池炭鉱労働者、主婦におくるうた、と添えがきして発表)は、このような努力の積み重ねのなかで生まれました。
 ここで注意すべきは、彼のコトバや行動からのみ学ぼうとして、その作品から学ぶことを怠ることです。

▼労働者の豊かな感情と不滅の斗魂を
 作品に現れた荒木栄を深く追求すること、原則的態度を貫いたことが作品にどう表れてきたのか、その課程を分析することは、今後もっと深める必要があります。
 
『荒木栄の短い生涯は、徹頭徹尾、労働者に支えられ、労働者と人民への献身にみちて、その作品はたたかいの方向を明示し、労働者の豊かな感情と不滅の斗魂をうたいあげることによって万人の心を強くゆさぶるものになっています。

彼こそは、その全力をつくして、民族のうたの宝庫をおしひらき、労働者階級の力によって発展させた偉大な労働者作曲家の典型であり、その作品は、労働者をはじめ広く国民大衆に愛され、たたかいを常にはげましつづけています』(井上頼豊)

 荒木栄は肉体的には死んだが、彼の作品、その活動と心は一千万みんなうたう会の運動を進めている私達の胸の中に生きており、一サークル、一曲をめざす全国の創作運動の中から、「荒木栄賞」に示されるような、数々のすぐれたうたも、第二、第三の荒木栄が生まれようとしています。
 みなさん! 荒木栄に学び、一サークル、一曲をめざす創作運動とオペラ「沖縄」の完成に向かって力を合わせてがんばりましょう。
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