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荒木栄物語 「関 忠亮」 |
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その2 | |
+++++++++++++++++ 最初のはげまし +++++++++++++++++ 三池製作所混声合唱団に不満を感じていた荒木さんは、間もなくここを離れますが、この合唱団にいる間に"炭鉱ばやし"(一九四九年)などいくつかの作品をつくっています。後に一九五三年の「九州のうたごえ」で、この"炭鉱ばやし"が発表されてから、彼は「歌は多くの人びとの気持ちになってつくるとき、生きたものがうまれる、とかんがえてたことが実現してうれしい、そしてはげまされた」と語っていますが、歌を真に大衆自身のものとすることを、彼もまた大牟田で、素朴に切望していたのです。 五〇年六月、アメリカは朝鮮戦争を始め、この侵略に呼応する政策によって、四十九年には公務員を中心とした企業整備(三十七万人)が、五〇年には全産業にわたるレッド・パージ(約一万二千名)が強行されました。戦斗的な労働者が一拳に経営から追放されたことは、民主勢力の全体と労働組合運動にとって、おおきな打撃になりました。しかし、やがて五二年には炭労、電産の六十三目の賃上げストを皮切りに、この打撃から立ち直った労働者は、五三年には日産自動車が斗争にたち、つづいて三池炭鉱もまた百十三日斗争に入り、首切りを撒回させました。 ++++++++++++++++++ 三池百十三日斗争 ++++++++++++++++++ 荒木さんは、「大牟田うたう会」や「蛮声会」(炭鉱労働者でつくられた男声合唱団)の活動をつうじて、この百十三日斗争に参加します。はじめて参加した斗争とうたごえ運動が、彼にあたらしい眼をひらかせていったのです。 つづく五三年から五七年にかけては、内灘基地反対斗争、米軍管理の日鋼室蘭のストライキなど、直接米軍に対する斗争がおこり、国民的な抵抗運動として「原水禁運動」もはじまりました。また、国際的な平和勢力が朝鮮戦争を休戦させ、全面戦争となることをくい止めたのです。 「反共」攻撃が、広はんな勤労大衆の生活と権利にたいする攻撃の先ぶれであることを自覚した人びとが、勇敢に立ちあがった時だったのです。「諸国民の平和強化のための国際レーニン賞が、うたごえ運動の指導者関鑑子さんに贈られたのもこの頃で、うたごえ運動はさらに高まり、さらにひろがってゆきました。 |
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++++++++++++++++++++ ガキ夫将と呼ばれて ++++++++++++++++++++ うたごえ運動は「実行委員会」による運営を確立させ、総評と提携して全国オルグを派遺し、三池炭鉱のなかにも新しい斗争歌や大衆歌曲がどんどんひろまりました。その力は、"炭鉱ばやし"の好評で多少慢心していた(誰にもありがちなことですが)荒木さんに、次々にあたらしい活動と課題をなげかけたのです。当時、荒木さんは大牟田青年合唱団(センター合唱団)と地域の水曜コーラスの指導とあわせて、大牟田地区合唱団連絡協議会を結成するためにかけまわっていました。彼の行動は情熱一点ばりで、かけひきや、腹芸などののぞめない人柄であり、年長者であるところから、仲間は「ガキ大将」あるいは「よろず相談所」と呼んで信頼するのでした。社宅を激励する製作所の合唱演劇クループ「山彦の会」のためにつくられた"もやせ斗魂"や、水曜コーラスの活動家の結婚に贈った"星よお前は"、そして"沖縄を返せ"など、とくに五六年には年間九曲を発表します。 "星よお前は"が急速にひろまるなかで、水曜コーラスの会員も増え、荒木さんは、創作が活動の機関車となることをあらためて知りますが、運動全体もまた、"大衆の生きいきした感動をうたいあげるのは、大衆自身である"ことに注目し、あたしい創り手を育てる活動に積極的にとりくむのでした。 (つづく) |
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その3 | |
++++++++++++++++ あらしに抗して ++++++++++++++++ うたごえ運動が全国にわたって野火のようにひろがってゆくのを最もおそれたのは、アメリカと日本の支配勢力でした。五〇年六月にアメリカ財閥の機密費によってつくられた国際文化自由会議(事務総長ニコラス・ナポコフ)は、五五年にはビルマで「新植民地主義と植民地文化をアジアに確立する」ことを提唱する会議をもち、工作を開始します。この会議との連絡口になる国際文化交換協会(会長:藤山愛一郎)や日本芸能文化センター(芸文)など、国内の組織化をめざす団体があいついでつくられ、あわせて音楽モデル県の設定(例、群馬県)や、大衆運動に対抗するスポーツの利用の政策など、国民の生活とたたかいから音楽(文化)を切りはなそうという攻撃が、あらゆる手段をとって始められました。(一時は「自民党のうたごえ学校」などというのまであらわれ、明本京静、安西愛子というひとたちがかり出されました) 働くひと自身のサークルは、歌の好きなものが漫然と集まっただけでは、その内容も、活動も、会場も、だれからも保証されないことを年ごとの全国の経験から痛いほど学びとったうたごえ運動は、歌いたい、という要求を守るためにも、意志と組織をつよめ、地方と産業の全体に、しっかりと根をおろす活動を積極的、計画的にすすめました。 ++++++++++++++++ あたらしい足場 ++++++++++++++++ このような活動の推進力となる「センター合唱団活動」をつうじて、荒木さんは全日自労の斗争に協力し、教職員の民主教育を守る勤務評定反対の斗争にもとりくんだのです。"手"(五七年十月)や"子供を守る歌"(五八年九月)は、この全日自労と教員の斗争のなかで生れました。荒木さんは、直接たたかいに参加して創作をすすめるなかで、たたかいの本質を知ることと、たたかうもの自身の心と発言を大切にしました。二つの曲は、作調を全体で討議し、作曲も、みなでうたって直してゆく、という集団的な方法で完成させる努力をしたのです。荒木さんがこの時に、自分の発想にだけたよるのでなく、たたかう仲間との信頼のうえに歌を仕上げる、という創作態度に確信をふかめたことは、つづく三池斗争での活躍を保証するあたらしい足場になったといえるでしょう。 五八年から六〇年かけては、警職法や安保条約の改悪など、支配勢力の軍事的な準備を強引におしすすめた時で、これに対して、「核武装阻止、民主主義擁護国民大行進」「戦争と失業に反対する大行進」「松川大行進」などの、国民の民主主義と生活を守るたたかいが、一つひとつの斗いの共斗組織を足がかかりとしながら前例のないおおきな規模をもつ安保斗争へと発展した時です。 三池炭鉱では、三池製作所を鉱山から分離しようという会社側の策動とあわせて、五九年の夏、千二百七十八名の指名解雇を発表、三池の労働者は、合理化反対の斗いに立上りました。 この三池斗争(最強を誇る三池労組の破壊)を安保斗争に結集した全国の民主勢力が支援して、たたかいはかつてない大斗争となりみごとな団結すばらしい規律が発揮されます。そして、第二組合による分裂攻撃、警官隊から海上自衛隊までくりだす弾圧、右翼の暴力団による殺人と対決していったのです。 製作所は第二組合にされますが、荒木さんをふくめた二十九名は三池労組にとどまり、最後まで炭鉱労働者とともに斗う決意をしました。当時の荒木さんについて、親しい友人はこう語っています。「労働者としての斗いと、うたごえ運動が彼を変えていったのです。とくに五七年日本のうたごえ祭典に代表として参加してから、共産主義の思想にたたないかぎり、大衆のためのすばらしい歌をつくりだすことはできない、と自覚するようになり、五九年二月に入党しました。三池大斗争の直前でした」。 (つづく) |
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その4 | |
+++++++++++++++++ 団結ガンバロー! +++++++++++++++++ 六〇年五月、裁判所は会社側の要求をいれて、石炭を貯蔵するホッパー附近の立入りを禁止。三池労働者は、争議中に石炭を運びださせぬためのピケをはります。ホッパー前では一万数千の警官と二万の労働者が対峙、七日には、全国からあつまった労働者・市民十万人によって、「三池を守る大集会」がひらかれます。 日本のうたごえ実行委員会は現地指導部を設け、延べ一万名におよぶ三池共斗うたごえ行動隊が活動しました。国家権力と真正面から対決し、一歩も後退せずに斗いぬいた巨犬なエネルギーと結合する。このうたごえ行動隊の活動のなかで、荒木さんは、民謡"おてもやん"にまなぶ"どんと来い"をはじめ、社宅の主婦や現場の労働者の心と言葉をそのまま生かした"三池の主婦の子守唄"や"がんばろう"など、十三曲を発表していったのです。 この三池斗争は、炭労大会(九月)の「条件付事態収拾」の方針による交渉がつづき、十一月一日に組合は千二百名の解雇をのんで争議は一応おわり十二月就労につきました。しかし交渉の条件は無視され、第二組合との差別待遇が露骨におしつけられるため、一部には敗北感さえ生れます。 荒木さんは、交渉がすすむにつれ企業別組合のもつ斗いの限界を口惜しくおもうと同時に、仲間の気持ちを引きたてようと"仲間のうた"(六〇年十二月)をつくります。そしてさらに、三池斗争をうけついだ大牟田の各産業での、たたかいの先頭にたつ労働者の気持ちを"心はいつも夜明けだ"(六一年五月)とうたいあげました。歌詞の「そうだ今日もガンバロウ」は、また当時の各産業にわたる合言葉だったのです。(また、この歌は"労働者はまだ"と題して五六年に試作した発想を、根気よく数年後に完成させることにもなるのでした。) ++++++++++++++++++ 準備と調査をつくして ++++++++++++++++++ "地底のうた"。安保斗争と三池斗争に結集された労働者階級と国民のエネルギーを結晶させた革命歌曲、ともいえるこの歌は、争議のあともひきつづく合理化攻勢と差別待遇とに斗いながら、安保体制と政暴法粉砕をめざす三池の労働者の、第二組合の労働者とも共通するたたかいの方向と展望をもって制作されたものです。この男声のための合唱組曲は、全国にさきがけて「中心合唱団の倍加」を達成した三池宮浦合唱団第二回発表会のために依頼されたものですが、その創作は、三池の多くの労働者の協力で、現場のなまなましい詩と発言をのこらずあつめ、同時に、二百八十二日におよぶ三池斗争の真のすがたとたたかいの方向を追求してゆくことから始められたのです。こうした精力的な準備は、当時、日本共産党のあたらしい政策と方針を、いち早く実践にうつした地方機関の熱心な協力と指導によって達成されてゆきました。この組曲の作曲は、ほとんどひと晩で完成されています。よく調査され、しっかりと内容をつかんだものが、感動としても、作品としても、短時間でまとまる例として貴重です。 荒木さんは、その後も約十曲を創作していますが、なかでも"黒潮のうた""この勝利ひびけとどろけ""わが母のうた"などは、"地底のうた"とともに、今までの全生活の体験を生かした密度と豊かさに貫かれています。 |
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+++++++++++++++++++ いまも、これからも +++++++++++++++++++ 荒木栄さんは、一九六二年十月二十六日、午後二時、胃ガンのために惜しくも三十八才の生涯を閉じました。 荒木さんの歌が、今もおそらくこれからも好んでよくうたわれる、ということはけっして偶然ではありません。あらゆる時期の代表作は、荒木さんが、共産党員として、うたごえ運動の活動家として、熱練した仕上げ工として、根かぎりの力でたたかい、うたいあげていった歌であり、その一つひとつの事実にとりくむ基礎のちがいと、思想のちがいが、ゆるぎなく働らくものの未来をきりひらいてゆく、この数々の歌を生みだして いった、ということを物語ってくれます。 (おわリ) ■冒頭のことぱは三池斗争創作曲・第一集にかかげられた詩「やがてくる日に」による。 |
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尚、この「荒木栄物語」は、うたごえ新聞(年月日不明)に掲載されたものを転記したものです。 |
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五線紙に労働者の心 ―たたかいの中で作曲しうたうー |
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■ 荒木栄は大正十三年(1924)、大牟田市の三池炭鉱社宅で生まれました。父の安太郎さんは、三池港水門の運転や機関車の運転をして労働者。きょうだいは男五人、女四人で彼は男の末っ子でした。小学校時代から優等生で、卒業のときは代表で答辞を読んだほどでした。 音楽の好きなおとなしい少年、荒木栄は十五歳のころ、父にねだって当時十三円もしたバイオリンを買ってもらいました。この頃のバイオリンの勉強は、のちに彼が作曲の仕事をする大きな素地を作ったようです。 高等小学校を出ると三井三池製作所に養成工としてはいり、それからなくなるまでの二十三年七ヶ月を、熟練した仕上げ工として働らきつづけたのです。 軍隊に取られてまもなく敗戦。復員した彼は「日本は負けた。これからどうなるかなあ」と気ぬけしたようになったといいます。キリスト教の教会にかよったり、三井三池製作所混声合唱団にはいったり、生きる方向を求めて荒木栄は悩みつづけました。 三井製作所混声合唱団はNHKのコンクールで二位になるほどの技術水準の高い合唱団でしたが、かれはこの合唱団に満足できませんでした。労働者の生活からはなれたうたを、ただきれいに合唱するだけでは満足出来なかった…荒木の栄の音楽にたいする姿勢は、このころすでに作られていたといってよいでしょう。 |
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尚、この文章は、うたごえ新聞(年月日不明)に掲載されたものです。 | |||||||||||||
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作成(2008/01/18) by bunbun | pagetop |
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作成(2008/01/18) by bunbun | pagetop |