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50年の物語(第49話)「がんばろう」 森田ヤエ子

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1) かあちゃんパワー、歌に
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1995年7月18日(朝日新聞)

 がんばろう
 つきあげる空に
 くろがねの男のこぶしがある
 もえあがる女のこぶしがある
 たたかいはここから
 たたかいはいまから
 ■写真は「がんばろう」作詩直後の「森田ヤエ子」さん(山田市)

 『がんばろう」は三池闘争の中で生まれた。一九六〇年六月五日、福岡県大牟田市の三井三池炭鉱のホッパー前広場。ヤマの男たちと、かっぽう着姿の主婦たち一万人が、生まれたほかりの歌を世に送り出した。
 壇上では、作曲者の故荒木栄が合唱団を指揮していた。作詞者の森田ヤヱ子(67)は、群衆の中で仲間から石粒を投げられる手荒な祝福を受けていた。「労働者みんなで作ったんよ」と照れながらも、うれしさに口元が緩んだ。
 千二百人の首切り通告をきっかけに、一月から無期限ストに突入した三池闘争は、大きなヤマ場にさしかかっていた。三池労組は、石炭出荷ののど元というべき貯炭場のホッパーを占拠。会社側や第二組合とにらみあっていた。
 長引く闘いに活を、と何人ものうたごえ運動家が創作に取り組んでいたが、これという歌はできなかった。そんな折、炭労の機関紙に詩を発表していたヤヱ子に、「日本のうたごえ」本部から声がかかった。
 四月上旬、三池入りした。三池労組合員の久保清さんが、ピケ中に暴力団員に刺殺された数日後だった。街を覆う赤旗。整然とデモ行進する三池労組員と主婦たち。足音がザグザクと一つになって響いた。
 炭鉱の争議ではこれまで、主婦は夫を陰で支えた。三池では夫のしりをたたきながら、堂々と一緒に闘っていた。「団結がんばろう」とこぶしを振り上げる女だちの姿は、ヤヱ子の心をとらえて離さなかった。
 「かあちゃんパワーの賛歌を作ろう」。週末の休みを利用して何度か通い、見たままの光景を書き上げて、うたこえ運動の仲間だった三池労組員の荒木に送った。
 荒木はすぐに曲を作って、翌日の大牟田センター合唱団のレッスンで、団員に歌ってもらった。団員らは「変わっとるばってん、面白かね」。さっそく街に飛び出し、真夜中のピケ隊に広めにいった。



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2) 32年後に聴いた「私の歌」
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1995年7月19日(朝日新聞)

 「がんばろう」は、三池の集会に参加した支援労組員の手でたちまち全国に広がった。一風変わった旋律と、平易ながら力強い歌詞。十日後の一九六〇年六月十五日には、国会を包囲した安保反対の十万人の間で歌われたほどだった。
 「東の安保、西の三池」。二つの軸で、日本中が真っ二つに揺れていた。六月十九日、日米安保条約が自然成立。東の激流は「総労働対総資本の対決」の三池に向かった。総評は延べ約三十五万人を動員した。
 三池と並ぶ産炭地・筑豊の三菱上山田炭砿で働く作詞者の森田ヤヱ子(67)も、うたごえ行動隊員として三池に通った。作詞の注文も次々舞い込んだ。この時期に作った詩は「俺(おれ)たちの胸の火は」「団結おどり」など十三曲にのぼる。

 労働側二万人、警察側一万人が激突寸前までいった七月二十日のホッパー決戦が回避されたあと、中労委は千二百人の指名解雇を追認するあっせん案を出し、炭労も九月の大会で、これをのんだ。ヤエ子は抗戦派だった。大手に勤めてはいたが、小ヤマの劣悪な労働環境を知っていた。首を切られる労働者や家族のみじめさも分かった。
 「『がんばろう』の歌詞の最後に『たたかいはいまから』とあるでしょ。簡単にあきらめちゃいけないという意味を込めたつもりだった。なのに、ボスたちが上のほうで収拾を決めた」。闘争が収束して、組織への不信感だけが残った。
 九月、ピケ隊の消えたホツパーを一人で歩いた。決戦に備えて掘られた壕(ごう)の周りに月見草が咲き乱れていた、
 「月見草は夜咲く花なのに三池炭鉱じゃ昼も咲く……」 月見草に、自分の挫折感と三池の悲しみを重ね合わせ、次の世代にかすかな希望を託す詩を書いた。「がんばろう」の故荒木栄に送ったまま、メロディーは知らずじまいだった。

 九二年夏、ヤヱ子は思いがけなく「月見草」に再会した。北海道合唱団の「荒木栄をしのぶ会」に招かれ、初めて曲を聴いた。同合唱団の持ち歌になっていた。優しくて柔らかいメロディーを素晴らしいと思った。
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3) 同人誌が鍛えた言葉
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1995年7月20日(朝日新聞)

 森田ヤヱ子(六七)は新潟で生まれた。三歳で父が病死。母が再婚した土木請負業の継父も、十五歳のときに事故死した。
 ヤヱ子の目に鮮烈に残っている光景がある。新潟の山奥のダム工事現場で見た強制連行の朝鮮人の姿だ。行き帰りは足を鎖でつながれていた。粗末な小屋の床は板張りで、まくら代わりに丸太が打ち付けてあり、番号がふってあった。
 掘削中に落盤事故があり、朝鮮人五人が生き埋めになった。継父は懸命に救助にあたり、命を落とした。残された母子は、継父の友人を頼って鹿児島へ。戦後の一九四八年、炭鉱景気に沸く筑豊に移った。 ヤヱ子は三菱上山田炭砥の、売店で働いた。組合の文学サークルに入ったヤヱ子は、共産党員の組合活動家、森田実五郎と知り合った。五〇年五月、「売店のヤヱちゃん」は「党員の妻]になった。
 結婚五カ月後、実五郎はレッドパージで三菱を追われ、小ヤマで働いた。「亭主が首になりゃ、カカァも一緒に辞めるもんだ」と、陰口をたたかれながらも、六二年の閉山まで売店で働いた。

 八年前に亡くなった筑豊の記録作家・故上野英信とも知り合い、「九洲サークル研究会」に加わった。メンバーには、今年二月に波乱の生涯を閉じた詩人の谷川雁や、作家の森崎和江らがいた。上野と谷川たちは、ホルモンをつつき、しょうちゅうを飲みながら、「創造か、模倣か」と文学論を交わしていた。ヤヱ子は、作品を上野からほめられた記憶はない。会誌「サークル村」への原稿は、何度も突っ返され。上野の自宅で徹夜で書き直しをさせられたこともあった。
 このころヤヱ子は、詩のほかにルポ、短編小説、評論なども発表した。「サークル村」に書いた「うたごえの創作活動の貧困性とその姿勢」と題する評論では、未来・勝利、スクラムなど、労働歌に多い陳腐な概念的言葉を批判している。その延長線上に、「がんばろう」が生まれた。「サークル村で、上野英信から鍛えられたおかげ」と、ヤヱ子はいま思う。



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4) 添い遂げた日雇い夫婦
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1995年7月21日(朝日新聞)

 三菱上山田炭砥の閉山から六年後の一九六八年、森田ヤヱ子(六七)は失対労働者になった。夫の実五郎は八年前から。ヤヱ子の記憶では、夫婦で一日千円ほどだった。
「『がんばろう』を書いたために、日雇いになったんよ」。ヤヱ子は冗談めかして笑うが、「労働者であり続ける」ことにこだわった自分なりの選択だった。
 炭鉱が消えた筑豊には、採炭に伴う地盤沈下の鉱害と、自然発火して煙をあげるボタ山しか残らなかった。ほかにこれといった産業のない産炭地に、国は失業対策の土木工事を当てがって切り捨てた。

 ツルハシやスコップを使っての土木作業ははきつかったが、労組の職場委員として、現場にトイレを設置させたり、休憩所を改善させたりと、満足感も深かった。「相手は労働省。職場の上役に刃向かったって、首の心配をする必要がなかった」
 休日を利用して、創作活動もできた。ヤエ子と組んで数々の労働歌を作った故荒木栄の生涯を描いた、『この勝ひびけとどろけ』は三年がかりで執筆。詩集も二冊出した。
 貧しいながらも満ち足りた夫婦の暮らしは八四年、実五郎の死で破れた。大腸がん。病院での三カ月間、ほとんど付きっきりだった。最期が近づいたとき、ヤエ子が「がんばったねえ」と声をかけると、夫の目から一筋の涙が流れた。
 子どもはなく、ヤエ子は動物が好きだった。詩にもよく犬のことを書いた。喜ばすつもりか、実五郎は酔っ払っては犬や猫を拾ってきた。

 「夫は、タヌキの横穴のような小ヤマで働いたり、山林労働をしたり、食べるための苦労ばかりだった。夫婦二人の日雇いで、やっと人並みの生活ができるようになったのに」
 実五郎が倒れる少し前、ヤエ子が作った「がんばろう」「山帰来」「もずの歌』などの著作権料が届くようになった。『年に五万円ほどでしだが、夫は大喜び。たいていパチンコ代に持って行かれました」。
 ヤヱ子の詩の良き理解者だっだ。「私、こう見えても、夫には一度も逆らったことないんですよ」。ヤヱ子は八つ年上の夫との日々を懐かしむように、目を細めた。



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5) ボタ山へのこだわり
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1995年7月22日(朝日新聞)

 福岡県山田市で、森田ヤヱ子(六七)は今も働きに出る。朝は四時半起床。弁当を作って、簡単な朝食を済ませ、七時前に家を出る。三十分ほどの距離を一時間近くかけて歩く。
 決まりで月に十日しか働けない。仕事のない日の午前八時すぎまでが創作の時間だ。思いついたままを、折り込み広告の裏に筆ペンで書く。詩の題材は、丹念に読む新聞とテレビのニュースが多い。気に入った作品は、はがきに印刷して百人ほどに送る。
 結婚以来の家は、老朽化と鉱害の地盤沈下で屋根が抜けそうだ。八畳と六畳の二部屋は雨漏りしている。建て増ししたプレハブの四畳半が、居間兼寝室兼仕事部屋。

  まだ燃えている
  たしかに燃えている
  脈々としてつきぬ坑夫らの
  血がたぎり わきかえる

 ヤヱ子が生涯のテーマとして描き続ける「ボタ山」の詩の一節だ。荒々しい稜(りょう)線に男の怒らせた肩を思い、雨に削られた山襞(ひだ)に女のふり乱した髪を見、国の「棄民政策」を告発する。そのボタ山も、耐火レンガや道路の路盤に利用し尽くされて姿を消した。
 ヤヱ子は、全日自労建設一般労組山田市支部の最後の委員長だった。四百人を超えた山田市の失対労働者は、五十八人に。ほぼ全員が加入した全日自労はわずか四人になり、この四月、支部は解散した。追い打ちをかけるように、六十五歳までの失対事業は、来年二月で打ち切られる。七十歳までの軽作業で働くヤヱ子も、二年あまりで定年だ。『職業は日雇い労働者」と胸を張った肩書は使えなくなる。 『労働詩人」から普通の詩人に。
「作風が変わっちゃうかしらね」
 住み慣れた家は、近く鉱害復旧が認められるのを機に、移転新築する予定だ。「だれもが集まって詩や文学について語り合える場にしたい」
 「がんばろう」の詩を書いた者として、いつまでも産炭地の語り部であり続けようと思っている。
    敬称略=おわり (三浦 亘)
この資料は、朝日新聞に、「50年の物語(第49話)」として、1995年7月18日〜22日、掲載されたものである。

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「がんばろう」の歌をうたうたびに
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神谷 国善 1964年5月1日(うたごえ新聞)

 一九六〇年四月。冬から春へ。三池の斗いの火は、久保清の刺殺を期として全国にひろがってゆきました。三池にかけつけた労働者がつき出す"団結がんばろう"のこぶしは、全国の職場でやられるようになり、やがて安保阻止のストを闘った団結で、十万人がとりかこんだ国会で、そして海をこえた北京の空でもつき出されるようになっていったのです。
 丁度その前夜にあたる頃のある朝早く、うたごえ行動隊の本部に荒木栄さんが、つくったばかりのうたをもってあらわれました。みると森田八重子さんの後に、彼が曲をつけた"がんばろう"です。これだ!この歌はいける!私たちはこおどりしました。団結がんばろう!両足をふんばり、固い決意をこめて空にこぶしをつきあげる。それをやる度に、この不屈の闘志うたった歌がほしい。それは三池の闘いに参加した全労働者の気持でした。
 早速三池労組のワキにつくられたトタンぶきの部屋に車座になってうたってみました。すると、どうしても気になる所が二ヶ所あります。

@「もえあがる男のこぶしがある(ラレラシラソ―ゴシック部分) A「もえつくす女のこぶしがある」です。「もえつくす?三池の主婦の気持は決してそんなんじゃない。これからもっともえさかってゆく巨大な火だ、火のかたまりだ」。うたごえ行動隊の面々は口をとんがらせ、連日の活動でつぶれかかった声でいいました。

 荒木君はこっくりして「そうだ。歌いたいのはそれだ。だけど俺は最初ヤエさんのもえつくすという表現につよくひきつけられた。勿論もえつくすような女じゃない。ヤエさんは全力をあげて斗う意味でかいたし、自分もそれに賛成だったが、やはりみんなのいう通りだ」とすぐ「もえあがる」となおしました。しかし「が」の音は"俺はここは「シ」でゆきたいんだ"と主張しました。色々討論の結果、「よし!それじゃ早速今日の社宅公演でうたってみよう」ときまり、彼はスクーターをとばして製作所にすっとんでゆきました。
 大衆工作の結果は、現在うたっている通り、「もえあがる男のこぶしがある(ラレドララソ―ゴシック部分)」となりました。「ものすごく皆なうたうんだ。この歌をすぐ全国にひろめよう」、その夜のうたごえ行動隊の総括を聞きながら、荒木君はその朝の激しい討論をすっかり忘れたように、ニコニコと笑っていました。"がんばろう"をうたう度その時の彼の笑顔がうかんでくるようです。
作成(2007/03/17) by bunbun pagetop






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みんなの愛唱歌「がんばろう」
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奈良 恒子  うたごえ新聞xxx号(1967/05/01)

 "がんばろう"のうたといえば、三池のあの大きな斗争と、荒木栄さんのことを思いおこします。荒木さんが短い生涯の間につくった作品の中、約半数が、三池斗争の中で生み出したものです。 「どんとこい」「みんなで敵をうて」「三池の主婦の子守唄」「守れホッパー」「がんばろう」「仲間のうた」「心はいつも夜明けだ」「地底のうた」・・・・・・ これらの作品をたどってみると、三池の斗いの歴史を知ることができます。

 荒木さんは、この斗いの中で、三池の労働者・主婦・子供・全国の仲間達とともに、怒り、よろこび、はげましあい、語らい、そして斗いをえがき続けました。三池斗争に示された三池炭鉱労働者の勇敢な、灼熱の三池魂と、全日本の労働者の連帯の姿を通して、日本の労働者魂をうたいあげたのです。

 一九六〇年、炭鉱労働者十一万人首切りの前哨戦として、三井三池労組に千二百名の首切りが出され、これをめぐって斗かわれたものです。日経連をはじめ、全九州の警察官、暴力団、分裂主義者などが総動員され、日本最強の労働組合といわれた三池炭鉱労組破壊と首切りを強行してきました。
 一方、炭労・総評を中心に十万の労働者が支援にかけつけ、うたごえ行動隊は全国から七千名が参加しました。
 また、全世界からの支持がよせられ、日米安保条約反対の斗争と一つになって、日本労働運動史上未曾有の大争議として斗われたのです。
 当時、三池労組の組合事務所の上には、大きな文字で「去るも地獄・残るも地獄」とスローガンがかかげられていました。三池の仲間は、この斗いを次のような詩にしました。
やがてくる日に
やがてくる日に
歴史が正しく書かれる
やがて来る日に
私達は正しい道を進んだ
といわれよう
 私達の肩は労働でよじれ
 指は節くれだっていたが
 そのまなざしは
 まっすぐで
 美しいかったといわれよう
 まっすぐに
 美しい未来をゆるぎなく
 みつめていたといわれよう
 はたらくものの
 その未来のために
 正しく生きたといわれよう   
 日本のはたらく者が
 怒りにもえ
 たくさんの血が
 三池に流されたといわれよう
 こうして毎日、ホッパー(石炭貯蔵所)前のピケに全国から労働者がかけつけました。 そして、三池の斗いをもち返り、全国の仲間に知らせ、その活動の中で歌がひろげられました。
 一九六〇年七月十七日十万人集会がホッパー前で開かれました。 これに向けて作られ、広められたのが「がんばろう」です。 この歌に盛られた、言葉の一つ一つが、労働者の心の叫びであり、力強くにぎられた、がんばろうのこぶしであり、三池斗争の典型的な姿です。 もともと、こぶしをつきあげる"がんばろう"という合い言葉は、三池斗争以前の斗いの中から生みだされたのです。
 北海道神成炭鉱(現在閉山)からはじまったといわれ、集会の度に、労働者が「万才」を叫んだのでは、戦争のことを思い出す、もっといい言葉はないものかと考え"がんばろう"ということにしました。 これがやがて一九五八年の王子製紙の大斗争の中で全国に伝えられたのです。作詩者の森田ヤエ子さんは、うたごえ行動隊として活動し、荒木さんとともに、沢山の作品を作りました。

 第三十八回メーデーはもうすぐです。メーデーにむけて"がんばろう"のうたが職場でうたわれ"おうー"とこぶしがつきあげる中で、この三池魂、いや日本労働者の魂をみんなのものにしていきましょう。
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荒木栄さんとの出会い
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奈良 恒子  うたごえ新聞214号(1965/04/01)
熱気にあふれた彼の瞳
 荒木栄さんに初めて会ったのは、中央合唱団の初めての九州公演の先のりオルグとして大牟田におもむいた時でした。一九五三年第一回の九州のうたごえ祭典(十二月十三日)がひらかれた直後のことです。 その後いつもいだいたように、この時も大牟田駅は閑散とした中にどこかで地ひびきとうなりが聞えるような、無気味な感じでした。
 この地は、日本の大地をゆり動かした三池労働者の団結と誇り高い才能が放っている多くの教訓とともに、いつもあります。当時の荒木さんは、三池製作所支部の労働組合員であり、又、非常に熱心な音楽愛好家でした。「炭坑ばやし」(50年作)でNHKアマチュア作曲コンクールの一位をとった彼は、又、三池労組の青年行動隊の隊長として、真剣に労働者の生きる方向を追求しているひたむきな、才能ゆたかな青年労働者の一人でした。
 レッドパージ後の三池労働者は、彼が当時を回顧していっていたように「眠れる豚」であり、メーデーに「赤旗」を歌うべきか否か、が討論されたり、後の三池斗争におけるホッパー前の三池炭鉱労働者の面影はまだ見ることが出来ませんでした。

 このように沈滞した空気の中で、自分たちの生き方を真剣に追求する若い三池労働者たちによって数多くのサークルがつくられて行きましたが、彼もまた映画サークルを中心に男声コーラス・蛮声会を組織し、作曲と指揮にあたっていました。

 中央合唱団オルグを迎え、蛮声会は座談会をもち、労働会館でみんなうたおう会(今のみんなうたう会です)をひらきました。

中央右が荒木さん、その隣が奈良さん53/12/18
 この時、蛮声会の演奏した「炭坑ばやし」の感激と興奮!労働者が生産点で集団を作り、作曲し、自分たち自身の歌をうたっている!私は信念に近い印象を受けました。これこそ本物の労働者の声だ!
 人民の中にある才能を目の前に見たという感激でした。労働者のもつこの才能と力は、北にも南にも、全国にあるにちがいない、この才能と力をのばし、多くの人達に知らせるためにも私達は活動しなければならない、と強く感じたのでした。

 その夜、大牟田の町を一緒に歩きながら、荒木さんは熱心に、沢山の質問を出し、語りつづけました。荒木さんの明るく、元気で、誰しもが新らしい世界観を手にした時にもつ好奇心と熱気にあふれた瞳を忘れることができません。

 彼はうたごえ運動の趣旨とすばらしい活動を知り、その後、終生彼が求め歩みつづけた九州のうたごえの仲間の戦列に、進んで加わりました。
作成(2008/01/17) by bunbun pagetop






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荒木さんの一面
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北出 二郎  うたごえ新聞xxx号(196x/12/01)
 僕が荒木さんとはじめて会ったのは(そしてそれが最後になったのですが)一昨年東京で開かれた第一回全国創作活動者会議の席上で、です。
 彼の注意深く謙虚な態度と、自信のあるまじめな発言によって、会場は常に建設的な雰囲気につつまれていました。会議が終わって、宿舎である新宿のユースホステル迄帰った頃はもう十時を回っていましたが、みんなでやきいもを食べているとき、彼もいつのまにかやきいもを片手にみんなの中におり、僕たちはたびたび彼のじょうだんで大いに笑い疲れを休めました。

 翌朝早く目がさめたので、屋上で一人体操をしていると、荒木さんがひょっこり上がってきました。「アアきもちいいネー」といって深呼吸をしながら近よってきて「よくねむれましたか」などといいながらしばらく二人で体操しました。
 ちょうど朝の太陽がさしこんできて新宿かいわいのケバケバしいネオンサインもバカみたいにチカチカ光っていました。僕は「バターくさい景色ですネー」といゝますと「いやすぐよくなりますヨ」としごくあっさりしたもので「サァ、めしできてるかな」といって下へ降り、食堂へ行きました。(関西合唱団)
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