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■ 朝起きたら二人とも腹具合が芳しくない。昨日の屋台………???と思ったが、夜分遅くの食事が原因ということで落ち着いた。屋台のオーナーには一瞬ではあるが疑いを掛けて申し訳ないことをした。

■今日は待ちに待った「荒木栄ツアー」の日だ。
ここにはどんな「荒木栄」がまっているのだろう。
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■3月6日(土) うたごえツアー 第二日目■


▲その2「荒木栄をたずねて………」
 今日は9時に大牟田の駅前広場に集合だ。博多からは特急で30分。それも30分おきに出ている。我が五能線は鈍行でかつ4時間に一本だから、大違いである。不便だから乗り手がいない。乗り手がいないから間引くという悪循環でここまで来ている。能代−弘前間を空気が往復しているようなものである。
 ホテルのチェックアウトを済ませ、天神までタクシー。道路は以外に空いていて早めに着いた。一本早めの特急に乗り込むことにした。車窓からの眺めはは緑が多く、オラホの銀世界とは大違い。その緑が春を感じさせてくれるものの、昨日も今日もやたらに風が冷たい。今日も寒い一日になりそうである。
 大牟田着。当然誰もいない。しばらく駅で待つことにした。土曜日の朝と言うこともあって、駅構内も駅周辺も人影はまばらである。それにしても冷たい風である。駅の中を寒風が吹き抜けて行く中での待ち時間であった。
 待つこと30分、本日のツアー御一行さまが駅前に到着。ごあいさつを交わし、本日のイベント「荒木栄をたずねてツアー」が始まった。

 このツアーに関して言えば、アザレア合唱団のはるかさんには一方ならぬお世話を掛けた。企画・立案・実行までにはとても多くの事柄があったと思います。折衝やら交渉やら人集めやら、感謝にたえません。改めて御礼を申し上げます。
 また、車を提供し、かつ運転まで引き受けてくれた方々や、時間を割いて案内をしてくれた皆さまにも、心から御礼を申し上げたい。


▲石炭産業科学館(福岡県大牟田市)
 大牟田と言えば石炭。ここのメインは、三池争議の非公開フイルム「三池の語りべたち 第2部」を見せてもらうことだ。
展示場にはいろいろあったが、炭鉱の閉山が対この前の平成9年だから、争議当時の展示品は以外に少ない。しかし、合理化とはすごいもので、いかに人員を減らし大量に石炭を掘るかを如実に展示している。
 例えば、採炭現場の切羽を担当する削炭機は、手塚治虫のマンガに出てくるイメージをそのまま形にしたような、無骨な形のものである。こんなものがあるんじゃ、人手はいらないことになる。結果として人員削減+経費削減にストレートにつながることになる。

 フイルムは三池争議の様子をインタビュー形式で描き出していた。監督は熊谷博子さんという女性だが、切り口がなかなか鋭い。登場人物は14人。皆さん元気そうで、記憶もハッキリしている。荒木栄も生きていれば80歳くらいだから、このフイルムの登場人物と同年代である。38歳は本当に短い人生だったんだなーと改めて感じた。映画の中で「炭掘る仲間」を口ずさみながら泣いている方が印象的であった。
 この争議を生きた人たちにとって、時間が動いているのか止まっているのか、正の遺産なのか負の遺産なのかbunbunには分からないけれど、労働者の一員として「昔むかーし……あったとサ」と、風化させてしまっていいのかという思いはある。
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 ここ石炭産業科学館はとても立派な建物で内容も濃いものであるが、当日は我々の貸切り状態であった。図体が大きいだけにかかる経費も大きいだろう。全てを入館料で賄っているわけではないだろうが、経費削減の折り、入場数ので閉鎖に追い込まれないことを祈る。


▲素敵な昼食

 昼食は三井港倶楽部で摂ることになっている。ここは、三井財閥の威信を懸けた立派なもので、三井の迎賓館なのだそうである。世が世であればbunbunなぞ一生出入りできない由緒ある場所である。今はレストランとして、食事や結婚式場として利用されている。お庭には今を盛りと梅が咲き誇り、もはや春爛漫の装いである。

 我々は春の息吹を感じつつ、素敵なお部屋でカレーライスを食べた。何と1575円の代物である。そこらの食堂のカレーとどこが違うかって??? 値段が違うでしょ!値段が。まっ、雰囲気代が8割だろうからね。
 カレーを食べ始めたら、はるかさん提案、団長の野田さんしきりで自己紹介をやれ!ということになった。食いながらしゃべり、食いながら聞くというのはなかなか難しい技である。まぁー、ツアー行程表がJR並みの分刻みだから、仕方がないか。

 大阪のにぎやかな方は、気の付くuedaさん。佐賀の方はuedaさんのケヤグ(友人)長崎のsidaさんは鉄ちゃんの「海のシルクロード」の作詞の方。地元の湯浅さんは荒木栄の「仲間の顔」の作詞者で荒木栄と同い年。現在は、油絵を描き、個展を開いたりと大活躍をされている。
 改めて、青森+東京+大阪+長崎+佐賀、そして地元の総勢14名の大ツアーであることを確認した。食後のコーヒーをいただいて、次のコースに向かう。

▲三井炭鉱三川坑跡

 ここは大牟田の町外れ、三井炭鉱三川坑跡だ。
 三池争議の中心となった所で炭塵爆発事故などが起こった現場である。しかし、ここにはきれーいに何もなかった。広大な原野というか空き地というか、何にもない場所であった。三川坑だったらしい「開かずの門」があり、その広大な土地は伸び放題の雑草の生えた更地のまま放置されていた。

 グルリと金網で囲まれ、出入りはできない。荒木栄たちがあれほどこだわったホッパー(貯炭庫)も、堅坑独特のやぐらも、一切合切何も無かった。ここまできれいに何も無いと、これからの新しいことが始まるのではないかという気にさえなってしまう………。過去を学ばせないためのgoo−な方法なのかも知れない。

 案内のの浦田さん(大牟田センター合唱団)が、ここに○○があったといろいろ説明してくれたが、凡人のbunbunには想像すらできず、ただただ無駄に広い荒れ地が横たわっているだけだった。
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▲殉難乃碑(久保清さん)

 まずは、久保清さんの殉難乃碑がある四山に向かう。見晴らしの良い山腹にそれはあった。誰が生けたのか、真新しいお花と黒っぽい殉難乃碑の取り合わせが印象的であった。右脇に「同志 久保清に捧ぐ」の碑があり、左側に「団結の碑」があった。
 折悪しく大粒の雨が………。お参りをして早々に引き上げた。参考のため碑文を書いておきます。

■碑文1■ 久保清「殉難乃碑」■
 あなたは昭和20年11月12日弟の薫君と共に三池鉱業所四山鉱に入社した坑内機械工の優秀な先山でした。

 常に寡然で責任感が強くこころやさしいあなたはみんなから信頼され、歴史的な三池闘争では第一分会第二班班長として活躍されました。

 うす曇りのその日の午後5時ごろ50余名で四山鉱正門ピケについたあなたは大牟田・荒尾を傍若にも武装パレードしてきた150余名のスト破り暴力団の奇襲を受けついに一暴徒のふるった一瞬の諸刃にたおれたのです。私たち三池の者だけでなく国の内外を問わぬ働く仲間のすべてにあなたの死を悲しみ命をかけたあなたの志を受けつぎ働く者の真の解放までどんなに辛くてもたたかい抜く決意を固めました。

 その日は昭和35年3月29日。かわいい啓二君、由美子ちゃんをのこしたあなたは享年32才。
昭和36年3月29日建立 「総評炭労 三池労組」 


■碑文2■ 同志 久保清に捧ぐ■
やがてくる日に
歴史が正しく書かれるやがてくる日に
私たちは正しい道を進んだといわれよう
私たちは美しく生きたといわれよう

私たちの肩は労働でよじれ
指は貧乏で節くれたっていたが
そのまなざしは
まっすぐで美しかったといわれよう
まっすぐに
美しい未来をゆるぎなく
みつめていたといわれよう
はたらくもののその未来のために
正しく生きたといわれよう

日本のはたらく者が怒りにもえ
たくさんの血が
三池に流されたといわれよう


▲万田炭鉱館(熊本県荒尾市) ぺーじとっぷ
 山道を駆け抜けた所から四山坑跡への道路があった。しかし、残念なことには道路工事中で登れなかった。歩いて登ろうとの声も一部あったが却下されたようであった。

 ここから熊本県の荒尾市に入る。ズーッと石炭の鉱脈が続いているので、ここら一帯は地上の名前は異なるものの、地下は同じで炭鉱跡が多い。

 荒尾市立「万田炭鉱館」に入る。ホールの床いっぱいに荒尾市の航空写真があった。壁面もいいが、上の方が見づらい。床面だと自分がその場所にいるような気がするし、どれくらい離れているか実感でき、分かりやすい。解説の方が見えるまで、じばし自主見学ということになった。大牟田の「石炭産業化学館」に比べると、かなり小規模である。

 解説の方が見えていろいろとお話をうかがった。かなり丁寧であった。
鉱脈が有明海に向かって緩やかに落ち込んでいるとか、反対側は山でstopし露頭になっていたとか、手掘り(夫婦一組は通常)の話などをしてくれた。

 緩やかな傾斜を追いかければ当然のごとく切羽(採炭現場最先端)は海の底ということになり、荒木栄の「地底の歌」=「有明の海の底深く………」が理解できた。エレベーターに乗り、ベルトコンベアを乗り継いで、切羽まではやく1時間くらいかかったらしい。ダイナマイトがあり、カンテラが飾ってあった。昔の苦労が偲ばれる展示である。

 帰り際、大阪のuedaさんが解説の方と写真を撮りたいというので、近づいてビックリ、何と!解説された方のお名前が「深浦」さんであった。さっそく名刺を出して意気投合。3ショットの写真を撮ってもらった。
 隠れキリシタンで有名な五島には深浦姓のあることは知ってはいたが、ここで深浦姓の方に会えるとは思ってもみなかった。深浦さんも、落盤で危うく命を落とすところであったそうで、自分の経験をふまえた解説は自ずと懇切丁寧になるわけだ。これからも元気でご活躍いただきたいものである。

手掘り採鉱の図


▲万田坑跡 ぺーじとっぷ

 万田炭鉱館からも見えたのだが、史跡(国指定重要文化財)として万田坑の「第二竪坑やぐらと巻揚機室」が残っていた。更地にするも残すにも人々のいろんな思いが込められていると感じた。

 先ほどの三川坑跡は何もない広大な荒れ地だったが、歴史を語るには何かしらの目印が必要と思う。bunbunのようにその場から隔絶されて生きてきた人間もいるのだから。目をつぶれば炭鉱マンたちが声高に談笑しながら行き交う姿が思い浮かぶ。そんな感じの建物だった。

 湯浅さんは油絵で自分の働いていた場所(炭鉱)を描いているが、「もう10年前からやっていればナー………」と、嘆いておられた。それだけここ近年の風化が速いということなのだろう。史跡は、今を生きる人々の生きるすべを教えてくれる何かを持っているのだが、土地の有効利用なんたらで、これからもドンドン壊されてゆくのかも知れない。

 炭鉱マンをズーッと見続けてきたであろう、ハゼの大木が印象的であった。


▲荒木栄の碑

 車は大きな病院の駐車場に入った。こちらは後続車なので、誰か具合でも悪くなったのかと思ったら、ここが荒木栄の亡くなった「米の山病院」であった。
 駐車場の入り口に荒木栄の碑が建っている。碑文は「地底の歌」の歌い出し部分である。毎年ここで荒木栄の供養をおこなうのだそうだ。

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■碑文3■ 荒木栄の碑
おれたちは栄えある三池炭坑労働者
弾圧を恐れぬ不敵の心
真実の敵打ち砕く 勇気に満ちた闘いで
平和の砦 かためよう かためよう
    


 38歳、胃ガン。余りにも若い他界である。真面目に仕事をこなし、労働組合の争議を牽引し、うたごえで炭鉱マンを鼓舞し、あちこちの炭鉱を飛び回り、うたごえの会議に出席し………いつ眠りいつ食べていたのか分からないが、あれほどの曲を作った。それが今でもうたごえの仲間の心の中に脈々と息づいていること驚嘆に値する。荒木栄の偉大さを改めて確信した。
 うたごえをやって、荒木栄に出会って、一度は荒木栄の活躍した場所へ………の思いがかなった。ツアーに参加して本当によかったと実感した瞬間でもあった。


▲水源地の森(寺尾谷)

 高速道路に入り、久留米市の水源の森「寺尾谷」を目指す。鉄ちゃん達も合流の予定らしく電話でのやりとりが頻繁になる。高速道路を下りて待ち合わせ場所へ向かう。案内の先導車は松尾さん。松尾さんの案内が裏道から裏道のオンパレードで、後続の車が大変だった。
 ようやく待ち合わせ場所へ。ここからアザレア合唱団員はうたごえ喫茶準備のため帰ることになっている。ついでにフクロウさんも風のように消えた。鉄ちゃん達も真っ直ぐ久留米のホテルに向かうらしい。オラとbunmamaとエーちゃんは松尾カーに乗り換えとなった。
 水源地に向かう途中、パトリオットの発射基地に寄り道をした。パトリオットの日干しは見られなかったものの、巨大パラボラアンテナ2連チャンを見た。
 まことに巨大で、保育所のグランドほどあった。パトリオットは地下の格納庫にあるらしい。人かげは無い。ここは重要基地らしく、防衛大学校の生徒も一年間は必ずここで生活をすることになっている。


 久留米市の自衛隊基地脇を通った際に、何十門もの大砲が見えた。レプリカのように見えるが、すべて実戦用の本物である。かなり大きい。この大砲一門につき牽引用のトラック不属する。一門一億円をはるかに超えるという代物である。 こんなものがゴロゴロしてるんじゃ、いざというとき久留米は敵方の攻撃目標のトップに躍り出るだろう。くわばらくわばら。
 狭い道路を通り寺尾谷へと向かう。ところどころにゴミ処理反対の看板があり、松尾さん(看板屋)の手になるものと聞いた。文字通り久留米の看板男である。

 寺尾谷周辺の山は町村合併の際、財産区として残しておいた場所だ。この総元締め(財産区長)が久留米市長。ゴミ問題で総元締めの選んだ場所が、久留米市民の水源となっている「高良川」の上流「寺尾谷」である。


 市の財産でないものを勝手に………ということで、松尾さん達は一昨年2月から八ヶ月間24時間体制で山中にテントを張り、反対闘争を続けている。現時点では5つもの裁判を抱えて奮闘している。松尾さんは身体も丈夫そうだが、精神的な馬力も相当なものである。地元の炭鉱マン魂を引き継いでいる。寺尾谷の詳細は「寺尾谷リンク集」をご覧いただきたい。
 また、安西さんという方も「花の谷便り」をUPしている。生物のレッドデータや野草の写真が3000枚以上とか。腕とカメラでオラの負けー(>_<)でした。
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 登り切って下ったところが寺尾谷であった。地質はわがふるさとにある天下の名勝「十二湖」と同じく凝灰岩質の崩れやすい岩盤である。谷の眺めも、そこかしこ「地滑り」地形である。
 現在は露頭(岩のむき出し部分)は養生で隠されているが、安西さん持参のファイルにbunbunが見立てた通りの地質と断層が写っていた。谷の平らな部分にコンクリートを打って、最終処分場とするらしいが、この部分は地滑りの土砂が貯まってできたもので、こんな所に造作物を作っても、泥田の上に家をこしらえるようなもので無意味である。


 谷は寒かった。気が付くと雪がちらついていた。安西さん達の心を込めたコーヒーが寒さと疲れを癒してくれる。最高のもてなしであった。ここでは、何故かイノシシの泥遊び場所とコーヒーの暖かさが印象に残っている。
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