とっぷ おけら歌集 荒木とっぷ 荒木年譜 文献目次

荒木栄に学ぶ

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斗いの宝になった「三池の主婦の子うた」
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多泉 和人  うたごえ新聞213号(1965/02/01)
▼とうとう来ましたね
 荒木栄君のことを考え出すと、何からどう話していいか分からなくなります。それほど沢山のことを私は彼から学んだのです。
 荒木君に初めて会ったのは、一九五九年日本のうたごえ祭典の創作発表会に、私が関西合唱団から「わたぼこ」をもって参加した時です。創作発表会のあとで合評会をやり、彼がしゃべっていました。会のあとで宝木実君が紹介してくれました。これが最初です。
 二度目は翌一九六〇年五月六日関西のうたごえ行動隊として関西合唱団や東大阪合唱団の仲間たちと三池闘争の支援に、現地へ出かけた時でした。当時、三池の斗いは緊迫し、全国の労働者が支援にかけつけ、日本のうたごえでも現地に本部をおいて、毎日曜日に統一行動をくんでいました。その日も、荒木君はホッパー前からとんできて、私を見つけると握手し、いいました。「とうとう来ましたね」
 ■写真は一九六〇六月五日、三川坑ホッパー前で、全国五〇〇〇名の支援労働者とともにひらいた初の「三池のうたごえ」。この二ヶ月余に全国のうたごえは延一五〇〇名が三池に活動を集中した。
▼ゴーホーム・ポリ公
 私は、もともと、荒木君の作ったうたはきらいでした。私がうたごえ運動について、よく知らなかったせいもあります。また、私自身、技術的才能の面だけの知識で専門音楽家ような顔をしているといった気取りが、彼に好かれていなかったのだと思います。

「おれだって書くんだぞ」というプライドのようなものが、反発させていたのです。 ですから、三池現地でスクラムをくんでいる仲間たちと同じく表現しようしても荒木君の方がすぐれていましたし、私には理解出来ないことが沢山あって、そのことを彼は見ぬいていたからではないでしょうか。彼にまけないものを書こうとしましたが、やはり書けませんでした。
 三池の宮浦合唱団は、当時、ある面で技術的におぼれそうな合唱団でしたが、私はそちらの方に気をひかれていました。ちょうど、”ゴ−ホーム・ヤンキー”という歌のかえうたで、「ゴーホーム・ポリ公」という詩があり、それに作曲し、宮浦合唱団の仲間たちにうたってもらいました。ホッパー前で警察官、機動隊とむかい合ってスクラムをくんだピケの仲間たちから、とても好評をうけました。三池に来てひと月もたった頃でしょう。私もポリ公と斗う中で、自身変わりながら書きあげたのでした。
  ▼三池の主婦の子守うた
 一度うちに帰りましたが、居ても立ってもおれなくなり、また三池に出かけました。
 荒木君はその時、昨夜書いたのだといって「三池の主婦の子守うた」をみせてくれました。私はそれを読んで、軍歌のようなリズムが気になり、いやな感じがしました。「これは軍歌みたいだなあ」といって、彼と大ゲンカになったのです。「そんなはずはない。ぼくが一度うたってみるから」といって、彼はうたい出しました。
 そのメロディーを聞いていると四分の四拍子で書かれてい符を八分の十二拍子でうたっているのです。「今うたってくれたのではこう書くんだよ」と、八分の十二拍子に書き直すと、彼は、「こういう楽符の書き方もあるのか」といって、その場はなんとかおさまりました。しかし、初めてこの歌が、うたごえ行動隊によって歌唱指導されたとき、みんなは泣いてこの歌をうたいました。
   四つ山の社宅に出かけて、主婦たちといろいろ斗いについて話し合い、その中で出てきた生まの言葉を詩に書き、主婦たちの願いを詩の中にも、メロディーの中にもいっぱいこめて出来たこのうたこそ、本当にみんなの心をうたいあげたのだ、ということを私は知りました。「三池の主婦の子守うた」は、たちまち一万人のピケ隊の中へ、三池の仲間や支援オルグの中へひろがりました。この歌は彼ら全てを、労働者の一つの隊列としてとらまえ、この歌をうたうことによって、本当に「斗いに勝つんだ」という広はんな力を作りあげたのです。こうして「三池の主婦の子守うた」は、三池斗争の宝になりました。
 私自身、アコ伴奏をしながらみんなといっしょにうたうことに誇りを感じるようになりました。この歌をとてもすばらしい、と思うようになり、荒木君をとてつもなく大きな人間に感じてきました。
(つづく)
    
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仲間のなかで仲間のこころを
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多泉 和人  うたごえ新聞214号(1965/02/15)
▼怒りと憎しみをこめて
 彼はすぐれた労働者作曲家であるだけでなく、またすばらしい歌い手であり、指揮者でもありました。 「三池の主婦の子守うた」は、二週間後には三池じゅうにひろまっていました。私はたまたま、彼と二人きりで、ひきなれないアコーディオンをかついでオルグに出かけることになりました。三川の団結館というピケ小屋の前で、歌唱指導をしていた時、「三池の主婦の子守うた」をやってくれ、という声がかかりました。彼は私の伴奏で独唱したのです。

 私は、こんなにうたのうまい人がいるんだなあ、とおどろいたのです。何も彼の声がいいの、うたい方がうまいのというのではありません。特に二番の歌詞
目玉を生命を奪われた
 たぎる仲間の憎しみを
 この子に孫につがせよう
というところ、また三番の
燃える三池の火と柱
 広がれ国のすみずみに
のところなど、目をぎらぎらさせて怒りと憎しみをこめ、力にみちて三池労働者と闘う仲間の心を、真実に表現していました。私は、うたはこうしてうたうものだと教えられたのです。

 また、これは何度目かの統一行動でいっしょに、うたごえ行動隊のはちまきをしめて、ホッパー前に行ったときのことです。司会者が「憎しみよ燃えろ」の指揮を荒木栄さんにお願いしましょう、といいました。
 彼はにこにこしてポンポンと仲間の列をとび出すと、労働者の間から大きな拍手がわきおこりました。 彼はどんなにか労働者に親しまれていたことでしょう。しかし、彼が指揮を始めると、するどい目つきに変わりました。いつも仲間の中にあって、仲間の気持ちをうたいあげ、彼らの心をうたで励ましている彼の姿を私はそこに見たのです。

▼はちまき固くしめ直し
 これも二度目に三池に行っていたときのこと、ちょうど7月なかばで、西日本のうたごえ(八月十三、四日)にむけ、アコをかついで歌唱指導に歩いていたときのことです。
 荒木君の妹、前原桃枝さんが「はちまき固く」の詩を書いて、持ってきてくれました。私さっそく作曲し、緑ヶ丘住宅の主婦会で歌唱指導したところ、すごくうけ、おくさんたちは涙をながして感激してくれました。

 そのことを荒木君に話して譜をみせたのですが、彼は、「まだ労働者的なものが足りない」というのです。長くきびしい闘いを闘いつゞける三池の主婦たち、三池労働者や支援オルグの仲間たちのために、六十度もの熱い釜のそばでにぎりめしの炊き出しをやり、はちまきをしめ直して働いている主婦たちはこんなものではない、まだまだきれいすぎはしないか、というのです。
 私はまたケンカをしました。主婦たちは現に感動してくれたじゃないか。荒木君の「もっとどろどろしいもの」という、すごい労働のなかみということはよく分かるのですが、とにかく主婦たちが涙を流して感動してくれたのは初めての経験でしたので、私もゆずれなかったのです。
 
 結局、私たちは、この一曲だけで勝負することはしないでおこう、もっとこれから沢山つくり、その中で深めようじゃないか、と約束し合いました。この約束の中から私の「不知火」が生まれたのです。

▼ほんとにいい歌だなあ
 ところで、西日本のうたごえにむけて、主婦たちがこの「はちまき固く」を練習しているのを聞いた荒木君は「あの歌はほんとにいい歌だなあ」といいました。私はどうもすっきりしませんでした。ついさっきまで悪く言われていたばかりでしたから。

 しかし、彼は主婦たちがうたうのを聞いて、率直に言い直したのです。もちろん私の曲の弱点を、主婦たちの声が補ってくれたのかも知れません。
が、彼が作曲家としてではなく、同じ斗う仲間として私の曲を聞いてくれていた、ということには、彼の率直でかざり気のない、すばらしい労働者気質に気がつくのです。

▼ついに君も書けたね
 荒木君は大変こまかい愛情の持ち主でした。負けん気の強い私たちは、よくケンカもしましたが、三池の斗いを通じて、彼はたえず私の弱さを支えてくれ、なんとか私がうたごえの隊列の中で、すぐれた書き手になるよう努力してくれたことを、今、思うとしみじみ感じるのです。本当に彼を兄貴のように感じるのです。
 三池の斗いに参加して帰ってから、その年の八月の末、私は森田ヤエ子さんの詩「不知火」を作曲しました。
 私の作品を今まで一度もほめたことのなかった彼が、これを聞いて、こういってくれました。「すばらしいうたをどうも有がとう。ついに君も書けたね」

 この曲を私個人の作品としてでなく、同じ戦列の中で斗った斗いの中から生まれたものとして、三池の仲間全部を代表するかのように言ったのです。「不知火」は六〇年九州のうたごえ(十月三十日小倉)で圧倒的に好評でした。

 こうして、私自身、三池の中で学びえたことで、うたごえのうたの製作に先進的に取りくむようになったのです。 (つづく)

作曲家
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万人の心をうたいあげる
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多泉 和人  うたごえ新聞215号(1965/03/01)
▼詩の言葉一つ一つを大切に
 彼がガンで死ぬということを知ったとき、私も胃を悪くして、入院を目の前に仕事をしていた時でした。二ヶ月程の入院予定でしたが、二十九日目に、いてもたってもおれず、九州へ見舞いに行ったのです。六二年九月の初めことです。

 彼は自分が死に直面していることを、すでに知っていたのですが、「今年の日本のうたごえ祭典には、ぜひ行きたいなあ」と、にこにこして語りました。私に自分で作ったブドー酒を出してくれながら、話はもう、同行した森田ヤエ子さんと、仕事のことに移っていました。森田さんの「わが母のうた」の詩について、彼女と論争していたのでした。彼は詩に大そう神経をつかう人でした。彼自身、以前、短歌をやっていたせいでしょうか、沢山の仲間たちによってうたわれることをいつも念頭において、詩の言葉の一つ一つを吟味し、内容をたんねんに検討して、一語一語ていねいに音符にしてゆくのでした。私は彼から、どんなに詩の言葉を一つ一つ大切にしなければならないかを教えられたのです。

▼今必要なのは大衆歌曲だ
 私は二時間程で引きあげ、その夜、大牟田センター合唱団のレッスンに参加しました。私が「しらす畑」の指揮をしていると、彼はスシを買うという名目で病院を抜け出し、レッスン上に来て聞いてくれたのです。
 彼が呼ぶのでそばへ寄ると、「きみ変わったね、きみ変わったね」と何度もくり返し、私を表につれ出すと手をにぎりながら「きみは技術的に大きなものも書けるし、その能力も持っている。しかし、オペラやオラトリオを書くことも大切だが、今必要なのは日本中にヒットする大衆歌曲を書くことなんだ」と、二度くりかえしていいました。
 仲間が大勢出てきて、彼はみんなと一緒に車に乗って帰ってゆきました。それが、彼と会った最後になりました。

▼歌は一人で作るのではない
 私にとって大きな衝撃となった、彼の言葉があります。三池の斗いの中で、彼はこう言ったのです。「うたは一人の人の手によってつくられるのではない。それは同じ斗いに参加したみんなのものだし、だからうたは、みんなの心の中にやどり、みんなの心を豊かにするものでなければならない」 その時は彼の言葉が理解できませんでした。当時の私は、いつも「おれが書くんだ」という気持がつよく、作曲を個人の作業にしてしまっていたのです。
しかし、その後、作品を書いていく中で、この言葉はいつも考えさせられてきたし、今になって大きな教訓となって胸にこたえています。

▼働く日本人民の民謡に
 荒木君がなくなって、足かけ三年になります。彼のことは今でも、しばしば想い出しますし、彼からもっと学ばねばならないと思います。

 いま、「大行進のうた」「仲間のうた」「せんぷりせんじのうた」などを機会あるごとに私なりに学ぼうと、ひもといている最中です。特に、「仲間のうた」は荒木君のあたたかい人間性に、深く学ぶものがあります。それは、あくまでも自分の思想性を表に出さず、しっかり腹におさめておきながら、ぐいぐい仲間の心をえぐり出し、その中で励まし、勇気づけているのです。
 彼が作品を書くときの一例として、「この勝利ひびけとどろけ」をあげますと、この中で、後半の”包囲めざし”の”し”低音部にフラットがついていることに気がつくでしょう。彼は最初フラットをつけず、”レドード・シシシー”と書いたにちがいありません。しかし、このひびきだと、独立をねがい、勇敢に基地を包囲した人民の闘いを、うすっぺらにしか表現できないと考え、普通にはこういう音の使い方はしないのですが、”シ”の音にフラットをつけたのだと思います。
 彼が歌をつくるときには、いつも”このリズムでは” ”このメロディでは”仲間の心を表すのに、少し弱い、こう書けば強くなるだろうと、なんども書きなおしながら、沢山のすばらしい詩を書きあげたのです。それ故、彼のうたは働くもの、日本人民の民謡になっているのです。

▼最後まで書きなおしをつづけて
 彼は一、二年前から、すでに自分の死を知っていたのでしょうか。「地底のうた」を、人生の最大の曲にしようとファイトもやし、最後の最後まで書き直しをつづけていました。三池闘争の終結後、一年たらずのうちに、職場には差別の嵐が吹きまくりました。彼はぜひこれを書くんだ、といっていました。万人の心をうたいあげるという全人民的課題に、身を犠牲にして取りくみ、これをつくりあげたのです。

 彼は、若いころにバイオリンを趣味的にひいていたくらいで、作曲の専門的な勉強は、何一つ受けていません。自身、職場の活動家として、最もすばらしい活動をやりながら作品をつくりあげてきた態度に、深く学ばされます。

 私は、彼が私の人生にとって大きなポイントになったことを、大変うれしく思っています。同時に、最後のきわまで、”日本人民の宝”をつくり出そうとがんばりぬいた荒木君に学んで、うたごえの仲間からも、第二、第三の荒木君を出さねばなりません。職場の仲間たちも、それを願っているはずです。
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「一点の火花から」を創って
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石原 秀雄  うたごえ新聞217号(1965/04/01)
▼勝利への確信と明るさ
 一昨年ぼくは「一点の火花から」と言う歌を作曲しました。この歌は”人間裁判”として有名な朝日訴訟の斗いの歌です。ぼくは当時(一九六三年)岡山で活動しておりました。岡山は朝日訴訟の現地で(この訴訟を起こした朝日茂さんは、なくなるまでずっと岡山の療養所で斗っていた)そのためぼくの所属していた岡山合唱団でも早くからこの斗いに加わっていたのです。作詞者の小林昭さんは、現地の訴訟対策委員会の事務局長をされている方です。

 ぼくは、この歌の作曲にあたり一番考えたことは、闘いの勝利への確信と展望から生まれる明るさと力強さのあふれた歌にする、ということです。それは、あの三池大斗争(ぼく自身も三池現地に参加しました)と、その中でつくられた数多くの荒木さんの作品から学び、考えたことですが、「主婦の子守歌」にもあるように、仲間のとおとい生命までうばわれるという大きな悲しみや、組合分裂という苦しみの中で、労働者は団結してそれをのりこえ、前進します。そこには、すでに暗さはなく、怒りにもえ、勝利への確信にみちた労働者の魂があります。歌はそれをさらにはげますものでなければならないと思います。荒木さんは悲しみや苦しみ、怒りをしっかりと腹におさめ、それを仲間同志の連帯感、確信にみちた明るさや力強さ、勝利への展望としてうたい上げていったのです。

▼大衆的に広がる力
 このことに学ぶということ、もう一つは朝日訴訟の斗いが@「医療保護」で療養している結核の重症患者から起こされた斗いであり、ギリギリのところで、人間としての生きる権利を主張するというところから、ともすれば斗いの周囲に悲壮感がただよい、A斗いの内容が、全労働者、全人民の生活と権利を守り獲得していく上で非常に大きな意義を持っていながら、特殊な斗いのように受けとられというような面があったため、どうしてもこの斗いを、大衆的にひろげていく力になるような歌、斗いの中にある勝利への確信とエネルギーを、明るい調子でうたい上げた歌にしたかったのです。
 そして、それは、自分自身を斗いの中においてこそ、ほんとうにつくりあげることができると思います。

▼斗いに参加する中で
 この歌の作曲の直接の基礎になったのも、そのような行動の中からでした。それは、この訴訟斗争の中で、徹夜の対県交渉(岡山県に対する)が行われたことがあり、それには、重症患者を含め、日患同盟や支援労組の労働者、守る会会員等多数が参加し、ぼくも共に参加しました。
  そして県の民生労働部長、衛生部長の理不尽な態度と対決した時、権力に対する怒りがもえ上がりました。一睡もせずに、一致団結して頑張りとおし、翌朝、東の空が白々と明け始める頃、体の疲れも感じないかのように、全員スクラムを組んで「がんばろう」を力いっぱいうたいました。
 この時の連帯感、確信、みなぎる闘志、生きいきしたみんなの目、それらはいまも忘れることが出来ません。
そして、そこで、どうしても闘いの前進にとって新しい歌が必要だと感じたのです。

▼感動をあたためること
 その時に得た感動、インスピレーションが基礎になったのです。そして、荒木さんが単にインスピレーションに頼るのではなく、働く大衆の気持ちを音楽的にしっかりと適確にとらえ、表現出来るまで努力をおこたらず、そのためになおインスピレーションを大切にしていた(大衆の言葉を丹念にメモし、気づいたことや、リズム、メロディー等がうかぶとすぐ書きとめる習慣)ように、ぼくは、この時の感動をあたため、その課程で小林昭さんによって書かれた詞を作品として具体化し、ねり上げたのです。
 荒木さんは「心はいつも夜明けだ」を十年も心の中であたためていたといわれます。

 この心の中であたためる、感動をあたためる、ねり上げる、というようなことは、荒木さんがはっきり示しているように、実践活動の中で真けんになされなければなりません。
そうでないと、人々を感動させ、勇気づける歌にはなりません。
 ぼく自身、失敗した例があります。詩を読んで感動し、作曲しようとしたのですが、その時にはどうしてもまとまらず、曲想がはっきりするまで”あたためた”のです。が、そうしてつくった」曲が成功しませんでした。それは、頭の中であれこれと想をねったにすぎず、技術的に処理できただけで、実践活動の中でその感動を高め、大衆と密着したところでつくり上げていなかったのです。

▼全人民の斗いとのかかり合い
 ぼくの作品の中で比較的よくうたわれた歌「一点の火花」や「輪転機」(岡山の一地方新聞労働者の闘いのうた)なども、その闘いとしてはよくうたい上げられていても、しれが広はんな人々のものにならない”せまさ”があります。作曲の段階で、そこの部分の闘いだけに眼をうばわれず、働く者の未来のためにすすめられている全労働者、全人民の闘いとかかわりあいの中でしっかりとらえていく眼を確立することが、荒木さんに学ぶ大きな課題です。

 それから、歌を作るために闘いに参加するのではなく、荒木さんがそうであったように、新しい歌を生み出さずにはおれないところにいつも自分をおく、つまり、常に労働者大衆とともにあり、労働者大衆に徹底して奉仕する思想と態度を、身につけたいと思います。

(東京・北青年合唱団)
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溢れる愛情と厳しい闘魂
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三條場康則  うたごえ新聞218号(1965/04/15)
▼「星よお前は」から「仲間のうた」へ
 ”星よお前は知っているね 共にたのしく 歌っていたが”あれはいつだったか、多分五六−七年頃の日本のうたごえ創作発表会で、背忠亮さんの独唱で歌われたこの歌は、鮮やかな印象で今も私の耳に残っています。
 遠くはなれた仲間への、つきることのない愛情が、美しい旋律の一節ごとに込められて、荒木さんの人間性がそのまま伝わってくるような歌でした。
 サークルへ歌唱指導に行っても当時この歌はよくうたわれたのですが、しかし、少しばかりロマンチックすぎはしないか、私たちの歌の中にも叙情性は大いに必要なのだが…と思っていた私も、あの三池斗争を経て、「仲間のうた」「三池の主婦の子守唄」から「地底の歌の”眠ったぼうやのふくらんだ…”のところなどでは、みちがえるほどの階級性にうらづけられた戦斗的叙情性へとはってんしてるのをみて、本当に頭の下がる思いでした。
 この欄で、多くの人から荒木さんのすぐれた資質について語られていますが、直接お話しすることのできなかった私にも、荒木さんの作品を通じて、そのなみなみならぬ努力が伝わってくるのです。

▼「松沢」の創作
 炭鉱の生活や、その斗いについてほとんど何も知らなかった私にとって合唱詩劇「松沢」の創作は、荒木さんが三池の斗いの中で切り開いて行かれた道を一歩一歩踏みしめて登るようなものでした。それは、標題の『荒木栄に学ぶ』といったものではなくて、ただもうガムシャラに彼のあとを追っているうちに出来上がってしまったといった方が本当でしょう。
 とくに、じぶんの身体を坑道にへばりつけ、九〇〇キロの炭箱を支えて下る、いわゆる”殺人ブレーキ”と呼ばれる、すさまじい労働を音楽で表現するには、あの地底の歌の第二章”くずれる炭壁、ほこりは舞い 汗はあふれ…”のさながら、さく岩機のうなりを思わせる、突き刺すような鋭さにあふれたリズムに学ぶことなしには不可能でした。
 又、斗う労働者の不敗の楽天性を表す気持ちで創った「おれたちゃもぐらでない」は、荒木さんの「手」の民族的な手法や風格に一歩でも近ずこうとして出来たものです。

▼労働者の中に
 しかし、本当の意味で荒木さんに学ぶということの如何にむつかしいかを、いま痛切に感じています。「ほんとうに労働者、大衆の生活感情のことばとして音として探ってゆく。つまり、自分が労働者の一人として息づき、うたうという態度をはなれては、大衆に受け入れられる歌は生み出せないー」(創作活動経験報告より)
 この彼の言葉に正しさが、松沢の斗いの中で生き生きと私たちにせまってきます。彼のメロディはリズムがどこで生まれたものかを考えずには、単なる形だけの模倣におわるでしょう。仲間へのあふれるばかりの愛情と、きびしい斗魂に裏づけされた荒木さんの創作態度に深く学びつつ、今後も創作活動をつづけてゆきたいと思っています。(和歌山ミール合唱団)

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ハダカで労働者の中へ
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長谷  治  うたごえ新聞219号(1965/05/01)
▼安保斗争のさなかに
 安保斗争の最中、徹夜で国鉄の拠点職場に座り込みに行った時のことです。小雨がパラついていましたが、数百名の支援の労働者はタキ火を囲み、アコーディオンに合わせて元気に風変わりな歌をうたっていました。
 ”みんな集まれ腕を組め。炭鉱マンも鉄道員も化学の仲間も、日雇いも…”この時が、僕とうたごえの接触のはじまりです。そのうたが荒木栄の「どんと来い」でした。この夜は、新しい力にふれた気持ちで一心に”みんな集まれ…”を繰り返し、歌いました。”しほんかどもア、わがどんどんばっかりしこたまもうけてしらんかお…”この個所が覚えにくく、苦労したことをいまでもよく覚えています。とにかく、調子のよい胸がスカッーとする歌だと思ったものです。

 僕はうたごえ運動に参加して、未だ四年程です。うたごえ運動の歴史についても、よく知りませんし、運動の中から生まれた労働者作曲家荒木栄についてもよく知りません。勿論、荒木栄に出逢った事もないし、栄という名前から察して、女性だろうと思っていた私です。
 しかし、彼の作曲した歌は、大変好きです。そんな所から、いまは荒木栄について色々思い浮かべ、学ぼうとしています。ぼくの職場でも、安保・三池の斗いの影響を受け、職場の文化を要求する斗いが起こり、その中からサークルが生まれました。以後、好んで、炭鉱の歌を歌ってきました。

 荒木栄の作品では、「おれの胸の火は」「おい仲間たち」「仲間のうた」「黒汐のうた」「地底のうた」などに取組んで来ました。荒木栄の歌は、どの歌も口先だけでなく、身体全体でうたう歌です。その中で、僕自身、徳に印象的な作品は、「おれたちの胸の火は」と「地底の歌」です。

▼「おれたちの胸の火は」
 「おれたちの胸の火は」の方は混声合唱の編曲ですが、僕たちは男声合唱で歌ってきました。
   先生方から注意されたのですが、皆はそのままのほうが良いといって歌い続けました。 僕自身、音楽の知識は全くゼロですから、混声も同声も区別出来ないし、又四つのパートとも、歌い手の気持ちをしっかりととらえていたから、今更変えるどころか、みんな気持ちよく歌ったものです。「地底の歌」の方は、序章、第一章の前部、第三章の”幼さ子は、何にも知らず背中でねむる。胸つきあげるこの怒り、この怒り…”の所が大好きで「おれたちの胸の火は」と共に、いつも身がひきしまり、ふるえそうになる程です。

▼腹の底からこみ上げる怒り
 荒木栄の作品は、どれも暖かく胸にしみ込んできます。腹の底からこみ上げてくるどうしようもない怒り、にくしみが僕の心をしっかりととらえてくれます。
全ての労働者
 搾取され、圧迫され、
 苦しめられてきた日本民族
 その心の底にずっしり重く、
 簡単に燃え上がりはしないが、
 消えることもなく、
 不屈に燃えつづけているにくしみの炎
 じりじりとこみ上げてくる怒り
 こぶしを力いっぱいにぎりしめる………。
そんな感情です。
ホッパーに咲く花、月見草
ホッパー出来る以前から
まずしい暮らしにしいたげられた
炭鉱の歴史を知っている (月見草
 その苦しい歴史を味わい、生き抜いてきた炭鉱の男、今、憎しみの火を燃え立たせようとしている。しかし、圧迫された続けた生活は、その生活が苦しければ苦しい程、簡単に起ち上がることは出来ません。けれども、斗わなければ生活を維持することも出来ないのです。
   重荷を背負った労働者が妻や子供を思い浮かべ、右にゆれ、左にゆれ、苦しみつつ、そして遂に、敵に向かって斗いののろしを上げるのです。それは、大きな感動を呼びます。荒木栄の作品は生き生きと感動を伝えてくれます。的には生命有る限り憎み続け、味方に対しては母親が子供に対するようなこまやかな愛情が、にじみ出ています。

▼素朴でず太いド根性

 荒木栄の作品の力は、彼が本当に労働者につかえ、心をよく理解している所から出てくるのではないかと思います。ツルハシ一本で生き抜く素朴でず太い労働者のド根性、労働者の兄弟愛、そこから来る明るさ、たゆとうさは今、僕たちが一番欲しいものです。

 荒木栄は、僕にこう教えています。「ハダカの労働者の中へハダカで飛び込んで行け!その中で体のすみずみに、活動のはしばしに生活の所どころにある弱点をなくするように自ら変革してゆくことだ」と。いかに敵の攻撃が激烈非情であっても働く者同志は、敵の攻撃をはるかに越えた、労働者の人間愛・兄弟愛で結ばれるものです。
 敵の攻撃が強くなる毎に、僕たちの団結が強まるように、心と心を結び、生活といのちを守る斗いの輪を広げるのに、少しでも役に立つように、うたごえ活動家のはしくれとして、先輩荒木栄のその人間に学んでゆきたいと思います。
 「地底」を創った荒木栄の年まで、僕は未だ十年あります。なかなか思う様な活動は出来ませんが、コツコツとねばりをもって体中をみがくことと、創作への熱は必ず結晶するものと思っています。今夜も、メモをポケットに輪転機のゴウ音を聞きながら、便所の中で五線紙を広げています。

    (朝日ジャコーラス団員)
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その明るさ、のびやかさ
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松村 伸子  うたごえ新聞226号(1965/08/15)
▼いつとはなしに聞き覚えて
 考えて見れば、私もうたごえ運動に集まる多くの労働者と同じように、いつとはなしに「がんばろう」や「」を聞き覚え、これこそ皆が望んでいる歌だとワクワクしながらうたったものです。

 小学校に居た頃は、お粗末なポータブル蓄音機で、ディックミネとか藤山一郎とかいう人達のうたう歌謡曲を聞きかじっては、得意になって歌った事もありました。又、夏になると、となりの女の子と一緒にユカタを着せてもらい、毎晩のように、盆踊りに出かけ、誇りも汗もかまわず、時にはヤグラにのせてもらって踊ったものでした。
 私の父は、江戸っ子商人で、クリスチャンでした。普段は賛美歌をうたっていましたが、酒がまわると、必ず木曽節とか、昔のはやり唄が口に飛び出す陽気な人でした。そんな中で育ったせいか、私は、専門教育を受けた後でも、庶民的なものがはだに合い、ざっくばらんで陽気で、単純なものが好きでした。
▼安保斗争のさなかに
 安保反対闘争の最中、私の住むM駅でも始発から何時間か、電車が止まりました。安保条約に深い憤りを感じ、それまで何もしなかった自分を痛く責めた私は、その日も皆が寝ているうちから、こっそり家を抜け出し、駅前で開かれている乗客大会に参加しました。どこかの合唱団の人だか、白いハチマキをして「どんとこい」を歌唱指導していました。
 私は、譜面で、もうおなじみだったので、「ああ、あの歌だな」と耳をそば立てて聞きました。安保斗争の中での国電のスト、そして乗客が自主的に呼応して開いた乗客大会。 そこで歌われたこのうたは、安保反対の内容を調子良く、明るく、皆んなを結集するように、うたっており、大きな力を発揮していました。
 もう一つは、或る合唱サークルでの事です。四部合唱でむずかしい顔をして声が出ない、音がはずれるとひけ目を感じながらうたい、「おてもやん」等の民謡をうたわせると、水を得た魚のようにすばらしいテノールを発揮するある若い労働者がいました。

 久し振りで私がサークルを訪ねると、彼は歌謡曲でもうたうような気軽さで好きですきでたまらないという風に「心はいつも夜明けだ」を歌っていました。
 
目をきらきら輝かせ乍ら歌うそのうたは、誰れかが作ったうたではなく、彼自身の歌のようで、声のひびきもパッと輝いているようでした。
 それまでの曲にはない、新しい力がこういった曲の中にあると、直感的に感じた私は、荒木栄さんという人が、三池の労働者である事を後に知り、深い尊敬をいだくようになりました。

 「もやせ闘魂」「沖縄を返せ」「大行進のうた」「三池の主婦の子守歌」「仲間の歌」「おい仲間たち」「こぶしかためて」「黒潮のうた」「この勝利ひびけとどろけ」「わが母のうた」「地底のうた」等の数々の歌を思うと、これらの歌がどんなに労働者をはげまし、平和をかちとって行く力になって来た事かと、荒木さんの短命が、今更乍ら悔まれます。
▼斗う心をかきたてる
 なぜ、荒木さんの歌にこの様な魅力があるのでしょう。
 それは斗う労働者人民の平和と独立を願う心を表し、斗う心をかき立て、団結させるからです。一つ一つの歌は一様ではなくそれがうたわれる場所と生活にふさわしく多様です。

 そのうたは、日本人なら誰でもが、自分のうたとしてうたえる解りやすさ、明るくのびやかに言葉と声が出る自然さをそなえています。

 荒木さんの歌も、その遺作集をひもとけばずい分多くの歌がありますが、特に、「地底のうた」のような日本の労働者の生活と要求をずばり表すような、深い内容と結びつけばつく程、民族的で、しかも最も内容にふさわしい表現となっています。
 例えば、「この勝利ひびけとどろけ」は、この日本から、アジアに飛行機をとばすな、の決意が上行する分散和音の旋律の中に明快にうたい上げられ、行進のリズムは、足の疲れも、声の疲れも忘れて前へ前へと歩く者をかり立てます。

 なぜこういう曲が生まれたのでしょうか?それは、荒木さんが、労働者の中に居て、斗いに参加し、労働者から学び乍ら斗いの本質を明らかにし、労働者とともにうたい、作るという生活を自分のものにしていたに他なりません。

 そのために彼は、常に政治学習と、音楽の基礎学習を怠らず、政治的な内容を大衆の言葉でどう表現するかに心をくだいたという事です。

 私も彼に習って、大衆の中に居て斗いに参加し、大衆から学んで来ましたが、今では斗いの本質を明らかに出来るような学習を自分のものにしてゆく事が、さし迫った大きな課題と思われます。 労働者の生活と心を自分のものとし、大衆のことばでどううたうかという事は、創作のみでなく、演奏にも書く事の出来ない事です。   (二期会/合唱団白樺)
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いつも働く仲間を鼓舞
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森田ヤヱ子  うたごえ新聞229号(1965/10/01)
▼斗いの中で結びつきが
 荒木栄さんのことは、第2回九州のうたごえに参加して以来、創作の上で、亦、私たち炭鉱のうたごえの指揮者として、常に尊敬してきましたが、一九五九年の三池炭鉱製作所支部に於ける、敵の悪らつ極る分裂行為のなかで、千五百名中、二十二名が、「全労組織への加入」運動と、その批判勢力を結集して、勇敢に斗い抜いた話は、当時うたごえ新聞、その他の民主的な新聞に依って報道されました。

 その二十二名の中には荒木さんを始め、うたごえの仲間が全員残ったことで、うたごえ運動が再認識される等、私たち三菱上山田木曜コーラスは激励の手紙と寄せ書きをおくることを決め、その日は、「燃やせ斗魂」「どんと来い」など荒木さんの作品をうたって、勝利を祈ったなつかしい思い出があります。贈った寄せ書きのとりもつ縁で、荒木さんから、手紙をいただく機会にめぐまれたことに、斗いの中であればこそ、人間的にも、運動の上にも多くの結びつきが生まれるものだとということを体験いたしました。

▼労働者の心をわし掴みに
 荒木さんの便りは、いつも私を力強く励ましてくれました。私のように職場で一生けんけい、書こうとしている者が、創作活動に参加すべきだという呼びかけや、新しい創作の問題点などを始め、荒木さんの職場での斗いや、創作の話など、臆面もなく書きつらねていて、ひたすらに労働者階級に愛され、歌い易く、然も普遍性に満ち、斗う仲間の士気を鼓舞し、無気力な人々を奮いたたせようとする創造をめざしているのでした。
 かたくなな私の心も、荒木さんのこの努力に打たれ、とうとう労働者の斗いに密着した、うたう詩を書く決意をしたのです。

 これまでは日本の創作歌曲の貧困性をなげいていたのでしたが、体当たりで書こうと決意したからには、必らず、労働者の心をわし掴みするような作品をと日夜挑みつづけ、その習作とも云うべき「どんづまりの歌」は、たちまち炭婦協のおばさんたちの話題にのぼりました。
 そのころ荒木さんは総評のつくった記録映画「炭鉱」を観て、憤怒を燃やして、胸をえぐられるような、中小炭鉱の悲惨な態度を見極めたい思われている所に、中宇田さんというオルグから筑豊の想像に絶する炭鉱労働者や失業者の報告を聞き、一層、筑豊に深い関心を持ちはじめられたようでした。
 私もそのころ「眠れる豚」とさえ云われていた三池の仲間たちが、百三日の斗争の後に、不屈な斗いをつゞけている姿を見て、帰山するオルグを待ちあぐんでいたところ、とうとうあけて一九六〇年一月、荒木さんと面会することになったのです。
 その前に、「大牟田センターの仲間たちの方に近づき、おじぎをするのが私です。」と云う意味の便りをおくって、一月三日の十二時十五分、大牟田駅に降りると、荒木さんがホームに迎えに来てくれていました。

 その前年の暮は、戦後、最も全ヂの斗争が烈しく、大牟田センターの仲間に連絡がとれず、すぐに、食品のうたごえで知られるニビシの喫茶店に案内され、私はたゞ荒木さんの質問に答えるのみでした、年令や、家出はどんな歌を歌っているか、などゝ云った他愛ないことばかり聞かれたようです。「家では、もっぱら創作歌曲ばかり歌います」と答えたとき、「どんな作品を」と聞かれ、「ヤマの娘や炭鉱ばやし、ヤマの子や、どんと来い」には、御名答だと云って明るく笑いとばすのでした。

▼不思議なおじさん
 コーヒーを運んできた娘さんにも、「きみ、この頃レッスンに見えないじゃないの」
と、きさくに話しかけたり、亦、松屋でパートに案内され、各売場の仲間たちに「森田さんと云って、今度の三池斗争のなかで、わざわざ上山田からやって来たんだよ」と紹介するのでした。此処で逢った製作所の人達にも、いちいち紹介され、ますます書かなければならない羽目に追い立てられるのでした。
 一息にかけのぼった屋上で、「あすこが、東洋高圧、あすこが三川、ホッパー発電所、僕のうちは、あの辺だよ」とはしゃぎ、無邪気な様子に、私は「不思議なおじさん」という印象を強くいたしました。 大牟田市街は新年だというのに、工場の排気ガスに空がどんよりと曇り、どどどどどどと、まちをゆるがす、不気味な音に包まれ、それは、企業合理化に、圧迫される労働者のエネルギー、憤まんやる方無い労働者の怒りは、あたかも沸りたつ鉱炉が地中ふかく、おししずめられ、やがて展開される斗いの、陣痛を秘めているかのようでした。

▼お玉杓子をひらひらと
 帰るとき、「森田さん、どんづまりから来たんだから、カンパを少し上げたいと思うんだけれど失礼かな」と云って下さいました。
 私は、「人並みに、残業もしたし、公休出勤もして、ボーナスは使い途がなくて、困っているくらい」と答えたとき、「それではあなた達のサークルへのお土産に」と云って、上衣の内ポケットから取りだした大型の五線紙に、お玉杓子をひらひらと泳がせてくれたのが、大斗争の前哨曲、「みんなで、みんなで、敵をうた」でありました。

 わずか、五分に満たない発車寸前のホームで、なんという速さ、なんという確かさ、呆気にとられた私はうごき出した列車の中で、「不思議なおじさん」を一層不思議だと思うのでした。  (つゞく)

(飯塚混声合唱団団員)
作成(2008/01/18) by bunbun pagetop






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互いに"節"をつくり出そう
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森田ヤヱ子  うたごえ新聞232号(1965/11/15)
▼大牟田センターと交流
 一九六〇年の歌い始めには、荒木さんから、お土産に貰って帰った「みんなで、みんなで敵を打て」を歌って見ました。ところが、仲間たちにとって、嬉しいには嬉しいけれど、「どんと来い」の域を脱皮しない「荒木節」だという酷評がだされました。
 然しその中から、創作歌曲が、酒の座で手を叩き乍ら歌えるという新しさを見つけ、荒木さんへの親近感がにわかに深まりました。

 正月の終わりには、労組幹部のはからいで、大牟田センター合唱団と交流させてもうことになり、荒木さん、山下敏之さん、神谷国善さん他、優れた一パートを迎えることが、出来ました。二度目の対面だというのに、話はすぐ創作にしぼられ「みんなで、みんなで敵を打て」の批評を聞かれたとき、私は素直に「荒木節だという意見も出ましてね」と答えると、非常に喜んで「荒木節とは良く云ってくれた。

森田さんて、面白い人だ。荒木節や、玉置節という風に、もっと、もっとたくさんの節がつきる出されなければならないと思うよ」と朗らかに笑うのでした。怒られることを予期していたのに、呆気にとられた私は、やっとわかったのです。「不思議なおじさん」とは、我々のような凡人ではないということなのでした。

 今日、うたごえの創作歌曲に限らず、文化の創造面に於いて、あまりにも多い模倣と類型に目を見はるとき、「互いに節をつくり出そう」という荒木さんの言葉は、貴重で、創作歌曲、二〇〇〇を目ざす運動全体のものとして生かされて良いでしょう。

▼宣伝カーの上で即興かえ歌
 いよいよ三池斗争が熾烈になってゆく、二月、三月の創作についての文通は、荒木さんと私との性格や生活環境にまで及び、斗争の経過や、今後の見通しなど的確に把握することに努力しました。四月の十七日には、九州のうたごえの要請で現地を訪れる機会に恵まれ、大牟田センター合唱団は、あの一糸乱れぬ、仲間たちのデモの足音や、統一して斗うこゝろを歌い上げようと「ワッショイ行進曲」をテーマに、真けんな取組をしておりました。

 早速、不当逮捕反対抗議のデモに参加して警察署前にかけつけると、荒木さんは、炭労の宣伝カーの上で、即席替歌の製作をしていました。
私は、今年の四月、神奈川青年合唱団の「不知火」の演奏に接して、「岸の信ちゃんなぜ泣くの。アイクのおじさんに………」の替歌を聞いたとき、あゝ、あの時の歌だったと、思い出し、再び感がい深い当時を偲ぶことが出来ました。

▼久保清さんの死への怒りから
 久保清さんが殺されて以来、日本独占資本家どもにたちむかう私たちの斗志は、日増しに高潮に達し、全国のうたごえ行動隊は、十分間のレッスの統一さえ見れば、地域のオルグとして、亦ピケ隊の激励にと、かけずり回ることが出来たものでした。

 そのころ私たちは「種紙」と云っておりましたが、レパートリーや、即興替歌を書き込んだプログラムを、大道易者のようにひろげ、風の吹く時は、小石で止めたりして演奏した。
 苦労話はあとにして、四山(よつやま)の久保清さんが、殺された場所にさしかゝったとき、焼香の煙にむせび乍ら、警官が、久保さんの血を、ホースを使って洗い流したと聞き、誰の口からともなく、ほとばしり出た「同志は仆れぬ」の歌は、凛然とひゞき合い、久保さんの血の泌み込んだ大地にふんまえて憤りを燃やして書いた「俺達の胸の火は」を、山田に帰ってまとめ上げたのは、五月の十日になりました。この作詞を受け取った荒木さんは、丁度、ホッパーのピケ小屋に詰めていたようです。
▼祖国への限りない愛と情熱
 第二組合の生産を阻止するために、赤錆たレールを枕にしながら、めまぐるしい闘いの中で寸暇を惜しみ、几帳面に返事を下さるのでした。「やはり森田さんに来てもらってよかったと思いました。”俺達の胸の火は”たいへん力強く、三池の斗いを全身で味わったあなたが、斗う労働者の真実の言葉を、みじかい詩に凝集したのです。凝集された言葉は、力を持ちます。この詩はすでに音楽を奏でています。ぼくは瞬間的にこの詩の音楽をとらえることが出来ます。もうメロディは詩をみたそのときに頭にひらめくのです。けれども、今度はインスピレーションに頼らず、もっと深く探ってみましょう。詩情というより、斗う者の心の奥を。それを音で表現できたら、もう自分の音楽的能力の限界などという安っぽいセンチメンタリズムは、けし飛ぶでしょう。いま、僕の胸に鼓動するこの詩のリズムは(譜=省略)という形です。
 活動と創作上の困迷を打ち破る作品として、僕に与えられた、この詩、この斗いと全力をつくして取り組みます………」と記されています。
 いま、灼けただれた硬山(ぼたやま)を背に、廃坑の野辺に佇ちつきして思うとき、それは、作詞者である私への返事ではなく、斗う人々の要求に応えた返事であり、それ以上に、祖国へのかぎりない愛と情熱をしめしたものでありましょう。(未完)

(飯塚混声合唱団)
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「民族の音」を創ろう
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魚住 清文  うたごえ新聞236号(1966/01/15)
■森田ヤエ子が荒木さんのことを話すときによくこういう話を聞かせてくれます。

・森田 『荒木さんは三池でどんな仕事をしていますか?」
・荒木「民族の音を創っています。」

 ヤエさんが僕にだけこういう話を聞かせているとすれば、それはきっと僕にハッパをかけているのだと思いますが、いずれ次回の「荒木栄に学ぶ」に森田ヤエ子自身が明らかにしてくれると思いますから、ここでは荒木さんが言ったことの意味を作品の上ではっきりさせたいと思います。というと一寸大げさで、大層学識があるように受取られると困りますが、色々感じていることという程度です。

■まず「どんと来い」の歌。ヤエさんは「荒木節」といいましたが、最初に聞いた感じではむしろ「おてもやん」(熊本民謡)の現代版で、巾広い統一戦線がうたいこんであるのが良いという意見が多かったようです。(楽譜@およびAを参照=未掲載)「おてもやん」が持っている庶民の楽天性が、働く仲間の楽天性として生かされ、出だしが、一人から大勢でうたえるようになっています。
   そして噺子ことばの面白さが、歌を誰でも気安く口ずさめるように考えられてあり、しかも「おてもやん」のようにふざけた形での抵抗ではなく正面から攻撃をかけている姿勢の立派なこと。これは荒木さんの人柄といってしまえばそれまでのようですが、三池の労働者が本来持っている労働者の根性といったものが感じられるのです。
 この点については大牟田の自労出身の詩人上野信幸もしばしば感嘆しています。「荒木君ほどアメリカ帝国主義と日本独占質本、つまり二つの敵を、はっきり歌にした人は今までにいなかった。」

■それはさておき「民族の音」についてもっとふれると、それは三池斗争の真只中で生まれた「がんばろう」にもっとはっきりした形で出ています。(楽譜B参照=未掲載)
 この音階は楽器で一度弾いてみるとよくわかります。
  よく荒木さんは合唱団の人たちに日本音階の説明をしていた時、簡単に要約して「江戸節という陽旋法と田舎節という陰旋法がある。」などと言っていました。
 勿論、荒木さん自身はもっと数多くの日本の旋法を研究していたのでしょうが、いわゆる短調と長調のちがいをもじって、合唱団の団員が理解出来るように話していたのです。

 この「がんばろう」の音階は明らかに陽旋法のひとつで、ホ陽旋などともよばれているものです。だがこれ位のことは一寸でも作曲をやったうたごえの人なら誰にでもわかります、私が感嘆するのは中国の「団結は力」の持っている、一言で何を言わんとするかをいう手法を、三池の斗いの言葉としてこの「がんばろう」の歌に見事に生かしている点です。「団結は力」の歌を荒木さんが知っていたかどうかは、さほど重要なことではなく、日本音階を使って、三池の、日本の労働者が言っていることをうたい上げた点をもっと学ばなければと思います。
 こういった荒木さんの「民族の音を創る」執心を、私はもっともっと深く勉強して、彼が念願としていた「第二の民独」を日本民族の歌をつくり上げるため頑張りたいと思っています。
(九州青年合唱団)
   
作成(2007/03/03) by bunbun pagetop






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人間を大事にする人
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曽根 良胤  うたごえ新聞xxx号(不詳)
 この写真は私が最も強い感動を受けた「地底の歌」の創作発表会ののときのものです。

 当時、私は堺市職労の執行委員として、7ヶ月にわたる賃上げ斗争を闘っていた真最中で、弾圧、分裂、懐柔等、あらゆる攻撃と斗いながら、資金カンパで日本のうたごえ祭典に、衛都連の仲間のリーダーとして参加しました。歌の内容が余りに私たちのおかれている立場と一致し、共感で胸がいっぱいになり、帰ってから早速、市職報この写真をのせて祭典の報告をし、又、大阪労音に中央合唱団、宮浦合唱団をよぶよう働きかけました。

 荒木さんとはお話したことはありませんが、彼の創作集「わが母のうた」をみれば、彼が非常にあたたかい、感情のこまやかな、斗魂にに充ちあふれた、そして何よりも人間を大事にする人であることがひしひしと感じられます。

 私は荒木さんが亡くなられる少し前、関西のうたごえの前日、10月20日に、6ヶ月停職と賃下げの処分を受けたわけですが、弾圧にいささかも屈することなく、一千万みんなうたう会早期達成のため頑張っています。

副題:写真を送ってくれた仲間の手紙から(泉州合唱団)
作成(2008/01/10) by bunbun pagetop






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休みない活動と学習
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小山美智子  うたごえ新聞xxx号(不詳)
 荒木栄さんを語る時、荒木さんの一人の写真がないように、大牟田センター合唱団や労働者の斗いのなかでしかその生き生きした姿をさがし出すことはできません。

 私が入団した当時(一九五八年)大牟田センター合唱団は一才だったと思います。荒木栄さんをはじめ数名の人がうたごえ運動の本質をまげずマスコミは勿論、組合幹部からさえ”アカ攻撃”をうけながら頑張っていました。

 それから五年近く指導をうけ、ともに活動をやってきました。困難な斗いのなかで飛躍的に拡大しましたが、そのなかで荒木栄さんの人となりやら活動の様子を私なりに断片的ではありますがおはなししたいと思います。
   荒木さんと若い団員は一五才ー二〇才の差がありました。それにもかかわらず年の差など全く感じさせない若々しい、たぎる熱情をいつも持っていました。
 レッスン開始の時間が全体にルーズになるとまっさきに時間を厳守し、会場をつくりかえ、みんなが来るのを、時にはアコをひきながら、五線紙にペンを走らせ、時には本や、アカハタを読んで待っていました。
 それはあの歴史的な三池の斗いのなかで、中央合唱団の援助によって研究生の学校を持ったなかでも一貫していました。

 三池の斗いでは、昼間は三池製作所に勤務し、ひけると本団と研究生の指導、現地指導の仕事、
  それにうたごえ行動隊で夜明けまでピケ小屋、社宅、地域に入り、激励の公演、創作曲をみんなに返し統一と団結の思想を話し込んで頑張りました。 日曜日には朝早くからやってく来る全国のうたごえ仲まといっときの休みもなく、あの小さな体で孫悟空みたいに動きまわりました。だから、いつ、どこでどんなにしてあんなに多くのうたを創作したのか、今もって私には不思議に思えてなりません。

 そのうえ、荒木さんはよく勉強していて、とくに毛沢東の”文芸講話”を愛読して、死ぬまで何回となく読み返されていました。私たちにも必読をすすめられたのを昨日のことみたいに覚えています。
(つづく)
     
作成(2008/01/09) by bunbun pagetop






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自労のおばさん達に人気
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小山美智子  うたごえ新聞xxx号(不詳)
▼ビッシリつまったノートの文字
 荒木さんは人の発言をほんとによく聞いて、体そっくりな小さな、きれいな字でぎっしりノートしていました。

 一つの例ですが、ある地域の座談会の中で、おばさん達がいった”父ちゃん達は、雨降る晩な、ほんなこてつらかろながか闘いじゃけん、体は大事にしといてもらわにゃいかんな、腹まきから綿入ばんてんのいるばい、腹んぬくもっとにゃ、タマゴ酒がいちばんだい”ピケに立つ夫を案じる妻の生々とした感情をそのままうたいあげた。
 ”三池の主婦の子守歌”はこのようにして、みんなを大切にする荒木栄さんの手で仕上げられたのです。

 座り込む炭鉱湖電車の中で、線路の上で、ビニール小屋で、団結小屋で、国家権力に対して一歩もひかなかった炭鉱の男達が目をゴシゴシこすりながらうたいました。

 そこには父ちゃん母ちゃんのつながりをのりこえ、闘いの中で同志としての高いきずなを深め、
  闘争終結後の人権無視の生産再開の中で創作された”地底のうた”のなかにある同志愛を生んでいったのだと思います。
 荒木さんは又、自労のおばさん達に人気がありました。荒木さん自身も、飾り気のない素朴で、それでいて権力に対しては男よりも団結して闘う、どろくさいおばさん達をたいへん愛していました。

 ”あすこに行くと、おれはおやじばってん、まるで子供あつかいにされてしまう””地声ばはりあげて、体いっぱいうたわす、あすこが、おばさん達のよかとこたい”と、とても楽しげでした。そう言う心のかよい合いが自労のおばさんが作詞した””や”大行進のうた” ”憎しみの中から”を創りあげたのではないでしょうか。

 荒木さんの忘れっぽさはセンター1で、タバコを吸えば、ライターとケースを忘れるし、講演で熱中してチョッキ(愛用)をぬげば上着だけ着て帰るし、レッスンの帰りに靴をはきちがえる等それは大変なもので誰か一人ついとかねばと笑いあったものでした。
   逝くなられる年の夏、久留米医大に見舞いに行った時、一通の手紙を見せてもらいました。
 ”日本共産党闘争小史”の著者”市川正一”の獄中闘争がこまかに紹介されていました。ゴー間(拷問の間違い?bunbun)でほとんどなくなった歯で小豆をかみ、最後まで生きる闘いをすてなかった、と荒木さんは非常に感動して、”おれも頑張るぞ” ”よくなってみせるぞ”と数ヶ月の生命とはみじんも思えない程の様子でした。そして、枕もとからとり出して見せられたのが”おれたちは太陽”でした。死と闘いながら、これは又何と底抜けに明るい曲でしょう。

 ”有明の海にもえあがった赤い火…”構成詩劇”不知火”のはじめにながれでる荒木さんの声を聞くたびに、百人、千人の荒木栄を育てあげねばならないと心に深く思います。

(元大牟田センター合唱団)
作成(2008/01/10) by bunbun pagetop






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"革命の前衛"に立つ確信
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藤本  洋  うたごえ新聞xxx号(不詳)
 かたき土をやぶりて
 民族の怒りにもゆる島
 沖縄よ
 われらとわれらの祖先が
 血と汗をもて
 守り育てた沖縄よ
 我らは叫ぶ沖縄よ
 われらのものだ沖縄は
 沖縄を返せ
 沖縄を返せ
 一九五六年、プライス勧告に反対して沖縄を返せと、日本人民の叫びが全国にわき上がり、これに応えエジプトではイギリスの植民地から立ちあがり、スエズ国有化宣言が行われ、全世界人民の平和と独立への闘いが嵐のように進んでいた。
 日本のうたごえの指導者である関鑑子先生に対しては輝かしいレーニン平和賞が授賞され、”うたごえは平和の力”の合言葉は日本人民の合言葉となり、国際的な連帯とはげましの中で運動は進められていた。

 この様な中で中央合唱団の第二回九州公演が行われた。すでに九州各中心都市には中心合唱団が建設され大牟田でも荒木栄をはじめ、大牟田の重要経営の労働者を組織した大牟田センター合唱団が建設されており、第二回公演は大牟田センター合唱団の主催で行われた。
 
 梅雨があけた大牟田はもう真夏の日ざしが照りつけ、二年前の早春とはうって変わって強い光りが街全体をつつんでいた。中央合唱団の公演は市民会館で行われた。会場前から列をつくって、三池炭鉱や大牟田労働者・主婦会の仲間達がやって来た。

 荒木さんは大牟田センターの仲間達と一緒に、この公演成功のため皆んなをはげまし、自らも組織活動をすると同時に、中央合唱団と大牟田センターの合同公演の準備をしていた。
 「洋さん、今度は中央合唱団からもっと学んで大牟田センター合唱団を真に大牟田の労働者の中心になる合唱団にしますよ」と言って大牟田センター合唱団の力強いうたごえで幕をあけ、自らその指揮をし、更に舞台裏の仕事を引きうけてこまごました仕事を立派にやってのけました。
 大牟田の仲間達は、この大牟田センター合唱団の演奏に心からの共感と激れいの相手(拍手の間違い?bunbun)を送りました。公演の最後は中央合唱団と大牟田センター合唱団の合同演奏が行われるとわれる様な拍手が会場をうめつくしました。

 会が終わってからこんだん会が開かれました。そのこんだん会には荒木は司会のような役割を果たし、うたごえが真に労働者のものであり、日本人民の闘いの武器であり、今特に沖縄を返せと云う事をうたいひろめる事は重要な問題だと云う事を確信にみちて訴えました。”地底のうた”にでてくる”…革命の前衛、炭鉱労働者…”の立場をしっかり身につけた彼の瞳は美しくひかり、にこやかな顔は確信と自信にみちていました。
 彼はこの思想と闘いを”沖縄を返せ”の中にうたいあげたのです。そしてそれは”地底のうた”にまで一貫して堅持された真の三池魂を表しています。

▼仲間たちへ
 数々のすばらしい曲を残してくれた荒木栄さんを、さまざまな面から浮きぼりにしたいという気持ちで、このランを続けたいと思います。みなさんの質問、希望、意見を聞かせて下さい。生前の荒木さんと接触のあった方々は、是非投稿して、このランを充実させて下さい。彼の写真をお持ちの方はお貸し下さい。責任をもってお返しします。また、彼の作品について、個人、集団で研究された場合は、その成果をぜひ発表して下さい。   (編集部)
作成(2008/01/10) by bunbun pagetop






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階級的な感謝を
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須藤 五郎  うたごえ新聞xxx号(不詳)
 私が尊敬する荒木栄君が亡くなって了った。三池の斗いと日本のうたごえが生んだすぐれた労働者作曲家荒木栄君が仕事の半ばに仆れて了ったことは、日本のうたごえ運動の大きな損失でもあると思う。

 私が彼を知ったのは数年前国鉄会館に於いて催された日本のうたごえ創作発表会の時である。数多い創作曲の中にひときわ私の心を引き附けた曲があった。技術的には未だ未熟な点を持ちながらも内容的には専問家の持たない素朴な良さを充分に持ち、私は非常に感動した。

 それまで彼は、私にとって未知の人であったが、この歌を聞いて大きな関心を持つようになった。荒木君が三池炭鉱の労働者であることを知るに及んで、私の関心はますます深まると同時に、期待も一層高まった。
   彼はいくたの斗争歌を作った。これらの歌があの困難な三池斗争を如何に勇気づけ激励した事だろう。日本の労働運動史の中でも特筆大書されて良い事だと思う。これらの歌は労働者でなければ作りえないものであり、実際に斗争に参加したものでなければ作りえないものだ。斗争の中から生まれた音楽が如何に人の魂を揺り動かすかという良い手本である。

 荒木君が胃癌で久留米の病院に入院した事を聞いて再起不能と知りながらも私は彼を激励し、日本の労働者のために精進する事を奨めると同時に、荒木君の仕事が如何に高く評価されているかという事を書き送った。荒木君は病床に筆をとって、第二の民族独立行動隊をつくりたいと書いてよこされた。
   私は病床に彼を訪問しようと思って果たしえなかった。それが悔やまれてならない。しかし彼は第二の「民独」をつくった。それは「この勝利ひびけとどろけ」だ。この歌は明快に現在の日本人民の斗いをうたいあげている。 多くの集会に於て「この勝利」が歌われ、「心はいつも夜明けだ」が歌われる時、作曲家の一員として若くて立派な作品を残した彼を羨ましく思うと同時に、彼に対して何らかの形で、階級的感謝をしなければといつも考える。

 それは仕事の上で彼の意志を受けつぐことであり、数多くの荒木栄を生み出すことだろう。今年から創作に荒木栄賞が設けられたことはすばらしい。それと同時に記念碑をつくることを私は提案したい。彼の残した作品は、労働者と共に生きてゆくだろう。このことを私は固く信じる。
(共産党参議院議員)
作成(2008/01/09) by bunbun pagetop






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どんよくでやさしい心
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神谷 国善  うたごえ新聞xxx号(不詳)
 最近毎日新聞で、コンゴに僅か半年足らずの間に一万人をこえる解放軍が生まれたことを報じ、「コンゴの武装人民軍といいベトコンといい、あれは中国の人民解放軍をまねたのだ」といっています。中国赤軍が毛沢東にみちびかれ、銃をとって人民解放の最前線で斗った軍隊ならば、荒木栄君はうたという武器で米日反動との闘いの最前線に立った戦士といえるでしょう。
 最近「この勝利………」「地底の歌」「黒潮の歌」「わが母のうた」等がひろくうたわれています。「この勝利………」は三県連が主催した広島大会でも歌われました。荒木君は氏の間際まで「第二の民独をつくりたい」と書いていますが、彼はそれを果たしたといえるのではないかと思います。

 三池斗争の前年一九五九年の正月のことでした。三井三池鉱業所は製作所の分離をはかり、ために製作所は第一と第二に分裂しました。
 ある日全員第一にのこって斗いつづける製作所合唱団を訪れた私は「炭坑夫行進曲」を紹介しました。ロシア革命の大きな力となったドンバス炭鉱の戦斗的労働者をえがいた曲です。

 それが荒木君をはじめ三池労組に残ってがんばっていた仲間を大きく勇気づけたのは、予想以上のものがありました。その時の彼らの一人独りの目の輝きを忘れることはできません。

 荒木君はいったいに自分の合唱団では自分たちの創作曲を多く取りあげました。だから中央合唱団で歌われるうたをすぐ取り上ないので日本のうたごえ祭典に行って感激して覚えてきた人から少し不満が出ることもあった位です。その前年は「砂川」の歌をきいて「子供を守る歌」をつくった後でした。
 ところがこの時の「炭坑夫行進曲」がどんなに彼を感激させ、心のおくふかくつきささっていたのかは「地底の歌」を聞いて始めて知ることができたのです。
「俺たちは光栄ある………」このリズムとメロディは「我ら光栄ある炭鉱労働者」から生まれてきたものでした。「わが母の歌」が「ふりそそげ春の日」の最初の出だしに学んだものだということも最近になって知りました。彼は感激屋でした。うれしいこと感激したことがあると子供のようにハシャイで話すのです。しかし、それ以上にその感激を地下数千尺の名炭のように胸の中にもやしつづけていたのです。何という貪欲さでしょうか。
三池の労働者主婦からは勿論外国のうたからも日本の伝統からも先輩からも、彼のナイーヴな心は、むさぼるようにすいとりたくわえているのです。
 彼が新しい歌をすぐ取りいれようとしないのは、そうした感激しやすい反応しやすい自分の心を押さえようとしたのではないかとさえ思われます。

 今日本のうたごえが一千万人をめざして一層巾をひろげ内容を高めてゆく必要がある時、私は荒木君のこのもえるような心、感受性、豊かさに学びたい。学びとりたい。そうしなければ、「黒潮のうた」「わが母の歌」すらも私たちの貧しい心でせまいものにしてしまうのではないかと恐れます。

(日本のうたごえ実行委員会事務局長)
作成(2008/01/17) by bunbun pagetop







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きりひらくエネルギーを!
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木下そんき  うたごえ新聞xxx号(1966/11/20)
 一九五五年全国に燃え拡がったうたごえ運動の高揚の中で、たしかはじめての”うたごえ幹部学校”(今の教育活動者会議に当たる)が開かれ、当時奈良蟻の会合唱団にいた私もはりきって参加しました。

 そのある日、今も同じ音楽センターの二階で、十人位の仲間にかこまれニコニコして大声でしゃべりまくっている小柄なオッサンがいました。大牟田の春まつりでみんなで踊るために作ったと云う”新さくら音頭”を一人でうなりながら踊り、「おかしさに腹をかかえる仲間を気にもとめず、この歌と踊りがいかに皆によろこばれたか話し”ホーレヤッコラサー”とこの歌がとても気に入っている様でした。「作ってはみんなにうたってもらってね、変な所は直し又うたってもらう、こうやって合唱にねー」。

炭鉱ばやし”について話すのを聞いて、ヘーッこれが炭鉱ばやしの荒木さんかーとビックリし、その年配?に比してその明るさ、若々しい雰囲気は荒木さんと云うというも思い出すものです。

 ”皆で歌い皆で直す”小耳にはさんだこの一言は当時遠慮がちに歌を作り出していた私に希望の灯をともしてくれるものでした。「ああやって、俺だって作っていいんだな」変な云い方ですが、荒木さんの素直な態度は大きな激励になったのです。

 以後、三池の斗いの中で、中央合唱団オルグ伴奏者として大牟田に行き、荒木さんには数回会ってもすれ違いで、話す機会とてなく、今盛んに悔いているのですが、その三池での経験はショックでした。

 白状しますが個人的にはそれまで荒木さんの歌は全体にきらいでした。もちろん、個人的な好みをみんなの中に持ちこんだことは毛頭ないし、先頭に立って拡め、その一つ一つに魅力を探ろうと必死でしたが。<三池という演奏会場で労働者大合唱団の大演奏会が毎日くりかえされた>その中でガンとやられたのは、歌の内容を作り上げるのは誰か、と云うことです。

荒木さんはこう云っています。<一つの詩をみて、しゅん間的に浮かぶメロディは多くの場合、明治以来の間違った音楽教育の中で失われた民族性と、西洋音楽への偏った、また生活とのつながりがうすい、安っぽいロマンチズムであり、メロディにおぼれると言ったメロディであった。ほんとうに労働者、大衆の生活感情のことばとして、音として探って行く態度、つまり自分が労働者のひとりとして息づきうたうという態度をはなれては、大衆にうけ入れられるうたは生み出せない>
 作品集を見ていると、彼がその中で受けとめた感動をためらわず大胆に歌いあげていることにうたれます。

 空白の職場で、他の労働歌はしらないが”がんばろう”だけは知っている所によくぶつかります。<大衆の心をうたい出すと同時に大衆に迎合するのではなく、大衆とともに高まって行く、ーきりひらくエネルギーをうたうー作品に立ち向かって行く>ことをやりぬいた荒木さんに今もはげませれて、作ったものをそれがどんなまずいものでも自信を持って大衆の中に入れ、より良いものにして行く姿勢>で私もがんばりたいと思っています。

 ”荒木栄に学ぶ”と言うことは自分のことを書くことになります。高峰のふもとで手探りしている自分のことを書くのはつらいことです。然し、”がんばろう””この勝利ひびけとどろけ”につぐ歌を、斗いの中にとびこんで皆の力で作り出す。それにとりくむことが一番の学習だと思います。私の中にある荒木さんの、一つの像を書いてみました。

(音楽センター創作部)
作成(2008/01/17) by bunbun pagetop







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荒木栄の創作活動(上)
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魚住 清文  うたごえ新聞289号(1967/11/20)
■一千万人達成を早めるために■
 一九六二年十月二十六日、ガンのため三十八才の若さで荒木栄が亡くなって五年になります。その間数多くの荒木さんについての研究が行なわれ、東京芸術座による「ある労働者作曲家の生涯」の上奏も含めて、日本の新し音楽を目指す先駆者の一人としての評価は、ひろく行なわれています。

 67年祭典にみられる日本のうたごえ運動の創作面における前進を踏まえて、改めて荒木さんがうたごえ運動の中で追求した創作活動に⊃いて若干ふれたいと思います。荒木さんというと「がんばろう」「地底の歌」「心はいつも夜明けだ」「星よお前は」「この勝利ひびけとどろけ」などの歌をすぐ思い浮べます。これらの作品の背景には必らず大きな労働者のたたかいや、うたごえ運動の高まりがみられます。

 それは労働者階級こそが、新しい日本の音楽をつくり出す源泉であることを、まざまざと示しています。しかもその中には、日本語の語感を生かした旋律やリズムに、新しい、かつ大胆な手法を用いている特徴があります。
   この特徴は日本のうたごえ運動の「一サークル一曲」運動の着実なひろがりと、「全国民的課題に真正面から取組む」「日常の生活と固く結びつく」「伝統に学ぶ」創作活動の基本方針の追及の中で、「返せ沖縄」「俺は旋盤工」「三交替節」など、荒木さんの作風と作品を土台に、さらに発展させられようとしています。

 さて、今までいろいろと行なわれてきた"荒木栄に学ぶ"意見をみますと、彼の作風と彼の作品についての二つに大きく分けられるのではないでしょうか。第一の点では
@ 一貫して労働者の立場に立っていたこと(これは彼の思想の成長と共に変化発展している)
A 労働者がもっている「たくましさ」を正確に掴む鋭さ
B 自分の作品をすぐさま大衆の中に持込んでいく誠実さ、几帳面さ
C 理解するまではどんな小さなことでもとことんまでくいさがる執念
などがあげられます。
   この中で案外見過されがちですがBの自分の作品を大衆の中に持ち込む作風については、重視すべきことだと思います。
 勿論 それぞれの時点で、大衆の要求にそぐわないことがしばしぼ起こり得るわけですが、それでもなおかつ、自分の作品をサークルや合唱団に持ちこみ、そこで出た大衆の意見を土台にさらに練りあげていくこと、これこそうたごえ運動でなければできない音楽の大衆路線ではないでしょうか。このことは「一サークル一曲」の連動がすすむ中で、作曲できる活動家の責任を、もう一度認識しなおす必要性さえ示しています。

 しかし荒木さんが果せなかった課題のひとつ"集団創作"については、名古屋青年合唱団の林学の「俺は旋盤工」によって見事に行なわれました。その後「三交替節」「黒い赤旗」などをはじめ創作みんなうたう会など、荒木さんが「子供を守る歌」や「三池の主婦の子守唄」で作詞の段階でしか果せなかった創作活動のひとつの課題は、大きな前進をはじめています。だがこのことは作曲できるうたごえ活動家の質、量の一層の前進が要求されていると考えなければならないと思います。(以下次号)
作成(2007/03/03) by bunbun pagetop






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荒木栄の創作活動(下)
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魚住 清文  うたごえ新聞290号(1967/12/01)
 第二の作品から学ぶ点では「がんばろう」をはじめ前記の作品やその他の代表作品を、いろいろの角度から分析する必要があります。ここでは特に日本の民族音階(琉旋法を含めて)の利用についてだけふれてみますと民族音階使って作曲した場合、詞と関係なく音の処理をしてしまうことが数多くあります。

 例えば長崎造船労働者合唱団が集団で作詞作曲した「胴つき作業の歌」(楽譜上)でみると、旋律自体は民謡的になっています。つまり旋法は下の譜例の音階がもっている旋法の範囲に止まっているのです。勿論この「胴つき作業の歌」は造船の分裂をはねかえし労働者の団結を固め強めるたたかいの申で大きな役割を果し、労働者の感情を見事にとらえています。
   だがこれを「がんばろう」と比較した場合(三池斗争が日本の全労働者のたたかいであり「がんばろう」がそこから生まれた点を考慮に入れても)仲々普遍性を持ち得ない点のひとつに、言葉を生かした旋法の問題があるといえます。
 それは「セーエーノ・ドッコイ」という掛声から次に移る場合に、その詞の言葉を生かしきれず、「セーエーノ」の旋法に影響されてしまっているからです。もっとつっこむと「セーエーノ」自体をもっと練りあげるとよかうたと思います。
   「がんばろう」がどこの誰によってつくられたか知らない人たちの中にも生きつづけ、極端な場合、自分の所属する労働組合歌だ、と信じられているほど労働者の中でうたわれているのは、この森田ヤエ子作詞「がんばろう」の言葉が、日本民族の音階と、現代の労働者の中に生きているリズムで、大胆に処理されているからといえます。
 「返せ沖縄」から歌劇「沖縄」へ、日本人民の未来を目指すたかいの中で、新しい働らくものの音楽は、日本のうたごえ連動の中で残した荒木栄の遺産を土台に、一歩一歩着実に前進しています。
 日本のうたごえ一千万人達成をはやめるために、民主的音楽運動の発展をかちとるために頑張りましょう。
(九州のうたごえ実行委員会事務局長)
   
作成(2007/03/03) by bunbun pagetop