・唐土ライブin深浦 東北うたごえレポ ツアーmenu おけらとっぷ

2004年7月18日(日)、唐土久美子ライブin岩崎が120名の参加で開催されました。

■このページは、唐土久美子フアン倶楽部理事「田戸」氏から拝借した資料に基づき作成しました。レポート・写真とも著作権は田戸氏が保有します。
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■唐土久美子コンサート」■
 2004年7月18日(日)午後4時から青森県・白神山地の麓で唐土久美子さんのコンサートが開かれました。
 唐土さんの持ち歌「白神山地の詩」を現地白神山地で歌いたいという唐土さんの念願、歌って欲しいという地元の人たちやファンクラブの念願が、ついにかなったわけです。

 当日は地元はもちろん、青森県内各地、秋田、東京、神奈川、茨城、埼玉など東北・関東地方の広い範囲からファンが集まり会場は満席でした。

 このコンサートはコンサート実行委員会が主催し、地元の岩崎村協賛で開催されたものですが、白神山地山麓にある“十二湖”ができてから300年になることから「十二湖生誕300年記念」の記念行事として位置づけられてのコンサートとなりました。
林りんセンターと看板
受付はbunママとお嬢さんの春佳さん

 会場受付は地元のbunママとお嬢さんの春佳さんで、二人だけで大忙しのてんてこ舞い。ファンクラブとして何も手伝わずごめんなさい。

 コンサートはbunbunさんの司会ではじまり、岩崎村助役の七戸さんの挨拶、ファンクラブ会長の植田さんの挨拶の後、唐土さんとピアニスト織井仁さんの登場です。
挨拶する岩崎村七戸助役
会場は、十二湖の近くのレジャー施設「サンタランド白神」にある「林りんセンター」で会場正面には「唐土久美子コンサート」の大きなポスターとたて看板(いずれも岩崎村で用意していただきました)が立てられ遠くからも目だっていました。

このポスターを見て、当日聴きに来た方もいました。この方は時間が無いからといいながらとうとう最後まで聴いてしまいました。
 それほど、唐土さんの歌が素晴らしかったということですね。


■第一部「人生よありがとう」■
 第一部は“人生よありがとう”で始まり約45分 10曲ほど歌いました。

 「いつでも何度でも」「時には昔の話を」の静かな歌のあとに「コンドルは飛んで行く」で唐土さんの本領発揮の高音で観客を驚かせ、余りの感動に涙ぐむ人もいました。

 「ロコのバラード」はオペレッタで小学校や障害者施設を訪問して演じていただけあってその迫真にせまった演技力は、唐土さんのもう一つの魅力でもあり、観客を圧倒しました。



ぺーじとっぷ
満員の会場で熱唱する唐土さん

 第二部までの休憩時間には会場入り口で地元の人たちがビールやコーヒー、団子やもちっこ、よさく揚げなどの販売を行い、大人気でした。


■第二部「聴衆を圧倒!!感動の涙…」■
 いよいよ第二部。唐土さんの持ち歌「思いでの涸沢」「白神山地の詩」を披露。唐土さんも白神山地の現地で歌うだけあって、力が入っていました。CDは勿論、これまでのどこのコンサートよりも表現力が豊かで躍動感がありました。

 ポピュラーな「涙(なだ)そうそう」や「世界に一つだけの花」を歌ったあと、この夏には歌わなければと「ヒロシマの有る国で」を熱唱しました。
 平和を願う唐土さんの思いがこの歌に凝縮され、その思いと豊かな表現力で、聴衆を感度させ声を上げて泣く人もみられました。
  ここで、リクエストがあった「アメイジング・グレイス」です。春に放送されていたTVドラマ「白い巨塔」のエンディングでこの曲が歌われていましたが、それに較べてはるかに唐土さんの歌は胸を打つものがあります。

 やはり高音の伸びは素晴らしい、天下一品。クラシックのソプラノ歌手にはない温かみがありますね。

 さてさて、これも唐土さんの本領発揮の「津軽のふるさと」「りんご追分」です。津軽に来て美空ひばりさんの歌をコンサートで歌うとは、なんと大胆不敵だと思った人もいるかも知れませんが、中には彼女のこの歌はひばりちゃんを超えているとさえ言う人がいるくらい、ひばりさんにはない、熱情と哀愁を感じさせる歌唱で、ここでも感涙をながし、むせびなく声が聞こえました。

 「白神山地の詩」の歌を演奏したあと、現地実行委員の一人でもある堀内先生がこの曲を合唱曲にアレンジしたことが紹介され、壇上に上がって唐土さんの歌に合わせて合唱曲のメロディーをピアニカで演奏し、大きな拍手を受けました。堀内先生は大の唐土ファンで今回のコンサートに多くの人をさそい、CDも沢山広めて下さいました。
ぺーじとっぷ  

自ら編曲した白神山地の詩を演奏する堀内先生 花束を贈呈する春佳さん。この夏結婚します。

■演奏曲目一覧■
第一部
1 人生よありがとう 2 花祭り
3 灰色の瞳 4 キサスキサス
5 何という胸の痛みだろうか 6 いつも何度でも
7 時には昔の話を 8 コンドルは飛んで行く
9 ロコへのバラード 10 鏡の中のバラード
第二部
11 ほたる 12 思いでの涸沢
13 白神山地の詩 14 なため(鉈目)
15 涙(なだ)そうそう 16 世界に一つだけの花
17 アメイジング・グレイス 18 ヒロシマの有る国で
19 津軽のふるさと 20 りんご追分
21 百万本のバラ 22 誕生
アンコール
もののけ姫主題歌 白神山地の詩(全員合唱)
 

なりやまない拍手の中、アンコール曲です。これもまた唐土さんならではの「もののけ姫」の主題歌、そしてもう一度「白神山地の詩」を全員で歌いました。

 最後に、春佳かさんから花束が唐土さんに贈られました。ピアニストの織井さんには花束がなかったのですが、織井さんに上げたかったという女性フアンもかなりいたようです。

 唐土さん、織井さんおつかれさまでした。
 岩崎村職員のみなさん、そして現地実行委員のみなさん、ご協力ありがとうございました。いたらない点があったかと思いますが、これにこりずに引続きご支援をよろしくお願い致します。


■アフター・コンサート(青森ツアーレポ抜粋)■
 2004年7月18日(日)、岩崎村(青森)で行われた唐土久美子コンサートに、東京、神奈川、埼玉、千葉、茨城からマイクロバスを仕立てて36名が参加しました。

  コンサート終了後、リフレッシュ村に向かい、北欧館で夕食を済ませたあと、キャンプファイアーを囲んでの交流会の開始です。みんなウン十年ぶりのキャンプファイアーに心をときめかせ歌い、語り合いました。

  この集いにはbunbunさんや地元の方々からの沢山の差し入れがあり、大いに飲めや歌えや、たべろやで心もお腹も満腹となりました。

 その夜は、リフレッシュ村のキャビンにとまりました。ログハウスではあるが、中は清潔。シャワー・キッチン・冷蔵庫など設備もバッチリそろって気持ちよい一夜を過ごせました。 中には、夜遅くまで激論を交わしていたグループもあったようです。

 翌朝は6時出発で、長かったようで短かったような青森ツアーも終わり。
 bunbunさんを始め、地元の皆さんと十分交流できなかったので、後ろ髪を引かれる思いで青森を後にしました。
歌に酔い・酒に酔い ご機嫌のbunbunとbunママ ぺーじとっぷ  

十二湖リフレッシュ村での記念撮影(7月19日朝)

 帰りのバスの中は疲れてぐっすりかと思いきやとんでもありませんでした。ダジャレの連発で爆笑に継ぐ爆笑、そして次々に歌が披露され、寝ているどころではありませんでした。
 ことの他、渋滞は少なく、東京にはほぼ予定通り明るいうちにつくことができました。

 現地のみなさん、本当に本当に楽しい旅と想い出をありがとうございました。みなさんの温かいもてなし、気心に心が癒される旅でした。
 涼しい青森と違って、都会は猛暑が続いており青森とみなさんが恋しいこのごろです。またお会いしましょう。
ぺーじとっぷ  

■特別寄稿(相模原市:篠崎さん)■
白神岳紀行 (2004年9月27日 11:06)………篠崎さんのメール
■bunbunさん その節は大変お世話になりました。その後、お元気でお過ごしのこととお察し申し上げます。
 熱かった夏も終わり、今日は少し肌寒い日になりました。白神岳登山をまとめようと心がけていましたが、毎日多忙で中々手につきませんでした。夏が終らないうちにどうにかまとまりました。添付送信致します。(一太郎です)
神奈川県相模原市 篠崎節男  
白神岳紀行(04/07/18)

 友人が、唐土久美子の後援会長と事務局長を務めている関係で、白神山地へ行く機会に恵まれた。特に、”白神岳へ登る”ということで、即刻参加することを決めた。

 ”白神山地の詩”が持ち歌で、白神岳山麓に位置する岩崎村の「十二湖生誕300年記念イベント」の一環として、岩崎村協賛で取り組まれた”唐土久美子コンサートツアー”に参加したのである。俗に言う”追っかけ”というより、”白神山地”が目的の参加であった。 横浜から30数名の参加で、マイクロバス1台とワゴン車2台に分乗し、16日夜行で出発した。コンサートは、地元実行委員会の皆さんの大きな力で観客を集め、全体で120名の参加者を得て盛大に行なわれ成功した。

 ツァーは二手に分かれ、観光コースは十和田湖や奥入瀬渓流散策と太宰治の生家である斜陽館の見学、そして竜飛崎散策と盛りだくさんである。私は、白神岳登山コースに加わった。

 白神岳コースは何よりも天候が気になった。直前に新潟で大洪水の被害をもたらして停滞していた前線が、徐々に日本海を北上し青森に近づく気圧配置であった。
 登山組は、到着した日は先ず地元実行委員長宅へ挨拶に行き、不老不死温泉や十二湖散策等で過ごし、明日登る白神岳登山口へ行って下見し、女性は登山口下に在る白神山荘に分れ、男性軍は十二湖リフレッシュ村ログハウスで泊った。
 翌朝は4時起きの出発、好きなアルコールも控え、交流会もそこそこに床に就いた。天井裏のベットに寝たので、夜中や朝方にトタン屋根を打つ強い雨の音を直に耳にして時々目覚めた。この雨では明日は無理かなと、夢うつつに考えて半分諦めていたが、朝起きると雨は止んでいた。朝食もそこそこにワゴン車2台で出かけ、途中登山口下の白神山荘に分宿した女性を迎え、登山口である白神平へ入った。

 登山口には広い駐車場があり、立派な村営の休憩所とトイレが整備されている。白神山荘に分宿した女性たちから、既に大型バスが入っている事を車中で聞いたが、私達が着くと既にバスから降りて、思い思いに登山の準備をしていた。50人近くは居るであろうか、この団体の後について道を阻まれては大変、なんとしても先に出発しなければならない。
 天候は雨模様であったが時々パラつく程度で、どうにか持ち堪えてくれるか、或いは午後からは晴れるのではないかとの楽観と期待を持って、団体さんより先に出発した。
本当の登山口は、5〜6分先で林道の切れる所に在り、代表が登山届けを書いて投函し、山道への出発となった。
山道の入り口に踏み込むとすぐ、自動センサーが設置されており、何人通過したかが分かる仕掛けになっている。山では初めての珍しい設備の経験である。
 二股分岐までは緩い登り坂で、道幅もあり安全な登山道であるが、身体が温まらないうちにいやにピッチが速く「最初から少し飛ばしすぎだな?」と思いながらしんがりを歩いた。40分程で二股分岐に着き休憩、後から来た単独行の年配の男性は、休まず直進の沢コースへ入って行った。今回の登山は他人任せで詳しく下調べをしてないが、沢からの道筋は急勾配で長い直登箇所も在るコースらしい。
 10分ほど休憩し、私達は左へ折れる蟶山(まてやま)の尾根コースへと進んだ。ここでトップが交代し、どうにか登山らしくゆったりとしたペースに落ち着いた。

 山の斜面を巻くような登山道であるが、勾配は緩く楽に歩けて危険な場所は無い。しかし、朝の7時近くになっているのに周りも足元も薄暗い。曇っているせいもあるが、ブナの原生林の中,茂る葉に空が遮られて夕暮れのようである。折角のブナ原生林の写真を撮ろうと思うが、デジカメではとても光量が足りそうもなく絵にはならないので諦めた。
私は何時も、初めて登る山の登山道の険しさの度合いを、登り慣れた丹沢と比較しながら登る習慣が身についている。蓑毛からヤビツ峠までのコースと同じ程度かな、等と考えながら歩いていると何故か安心感がある。人声が聞こえてこのコース最後の水場に着いた。
 先着のパーティーかと思ったが、大きなザックにどこか見覚えがあり、「昨日登った人達ですね」と声をかけると、「縦走する予定でしたが天候が悪いので無理せず降りてきました」という。昨日、私達も時間の余裕があり、大通りから少し横に逸れて登山口を下見に言った時、この山への登山には不釣合いと思える程、大きなザックを背負った若い男女数人のパーティーが登っていくのを見たのであるが、やはりその人達であった。本来であれば十二湖への縦走が当初の計画であったのであろうが、天候を見て無理せず降りてきたという。正解である。
山で水場がそばに有ると安心する。ここが最後の水場なので、それぞれが水を補給したり口に含んだりして10分の休憩をとった。

 この先から山道も急に傾斜がきつくなる。とはいっても山の斜面にジグザグに雷光形に付けられた登山道なので、山慣れた人には適度な登りであり、やっと登山らしくなってきたなと思える程の斜度である。
 ところでこの登山は、唐土久美子ファンクラブの企画であり、この機会に白神岳に登りたいというのが唯一の共通点で集まった人達である。観光コースとは別に小回りの利くワゴン車2台に分乗してきた12人で編成されていた。
半数以上は常日頃顔を合わせている友人・知人であが、初対面の人も5名程いる。
男性8名女性4名で、平均年齢は60歳を越えているであろう。正に中高年の即席登山パーティーである。従って山登りの経験も力量も全く違うし、知らない人達のグループである。
 急にきつくなった登りで、一人のご婦人が遅れ出した。実は水場で「皆さんが降りて来るまでここで待っている」と言うのを説得し、全員で頂上まで行こうと周りで励ました経緯がある。

 若手男性2人をサポートに残し、二手に分かれて頂上を目指すことになった。午後4時のコンサートには間に合うよう、下山しなければならないという時間的な制約がある。蟶山分岐までは急な山道が続いたが、尾根に出ると緩やかな稜線歩きとなり余裕はできたが、ブナの林に遮られて見晴らしは全く利かない。
 途中強い雨にみまわれた。ところがブナの葉が天井を覆い、直接下までは降ってこない。 一旦木の葉に当った雨が飽和状態になり、雫となって落ちてくる。普通の山であればびしょ濡れになるところであろうが、木の葉の屋根に遮られて直接雨には当たらない。
 私の基準は、雨具を着るかそのまま歩き通すかは、濡れて体温を奪われ寒さを感じるようであれば常備している合羽を着る。体温を奪われることによって体力の消耗を防止しなければならない。雨でなくても風の強い稜線を歩く時も同様である。
 この時も強く降ったのは一時的で、ブナの葉が傘の役目を果たし、ポタポタと雫が落ちる程度でひどく濡れるほどでなく、そのうち小降りになっていつの間にか雨は止み、結局雨具の着用は不要であった。緩いアップダウンの見晴らしの利かない単調な尾根歩きだが、雨の日が続いた為か足元のぬかるみに悩まされながら、時々小休止を採り頂上を目指して進んだ。

 低木帯になり、視界も開けてきたところで道も険しい登りに変わる。高山植物に詳しいご婦人が居り、花を見つけると歩みを止めて周りの人に説明を始める。その度に前の人が立ち止まるので、しんがりを歩いている私は前がつかえ、足場の悪い場所に止って身体を保持しなければならなかった。前の人との間隔を開けて歩けばよいのであるが、登るテンポが遅いので、つい前の人のすぐ後につく形となってしまい、安定した場所を確保して止る余裕は無く、不自然な体勢のままで前が進むのを待つはめになってしまう。
 何度かそんな事を繰り返しているうちに、平坦な稜線に出ると十二湖への分岐であり、少し進むと登山道の右側斜面一帯はお花畑であった。それまでは濃霧で、前を進む人達の後姿と低木帯の周囲しか見通しは効かなかったが、この時は運良く一瞬ガスが流れてお花畑を一面に見渡すことができた。すぐ向かいの山は濃霧でその姿は見えない。更に進むと登山道の左側に小さな祠が在った。
 頂上への道はまだ続き、一旦下って又登る笹原の吊り尾根になっている。残雪の時期に下見に来ている木戸氏は、当時と様相が変わっていたのか、「道が違う」と一瞬戸惑ったようであるが、一本道なので迷う事も無く笹原の中に付けられたぬかるんだ道を進むと、右手前方に山小屋のようなな建物が在った。近づくと立派なトイレであった。長谷川恒男氏(※)が設計アドバイスしたという避難小屋は、そのすぐ奥に建っていた。

 小屋には10:30に着いた。小屋から頂上にかけては小広い平坦地で先客が居た。朝食が早かったので、小屋の前に設置されて在るベンチで早い昼食休憩を採ることにした。雨は止んで天候回復の兆しは見えたが、まだ濃霧は晴れない。時々陽射しでパッと明るくなるが、また霧に陰ってしまう。
 白神山地は世界遺産であり、核心地域と緩衝地域とに分かれている。もちろん我々一般登山者が核心地域に入るには、入山申請をして許可を得なければ指定ルートには踏み込めない。せめて、頂上から白神山地の核心地域の様子を眺められればと期待したが、それも濃霧で不可能であった。

 避難小屋はヒバ(アスナロ)で造られ、高さは低い二階建て程度の建物であるが、中を覗いて見ると収容人数を多くする為三段になっており、立つと頭がぶつかる。天井裏の最上階だけが一仕切りになっており、一番広く使えて住み心地の良い設計である。後から着いた5〜6人のパーティーが垂直の梯子を登り、最初に三段目の貴賓席を確保した。小屋の中からガマ(ヒキガエル)であろうか、大きく野太い鳴き声が聞こえてきたが、狭い土間をいくら捜しても姿は見えない。床下にでも住み着いた小屋の主なのであろうか。
 昼食を済ませ、すぐ先の頂上で揃って記念写真を撮るが、霧に咽ぶ情緒ある写真になるであろうと勝手な想像をめぐらし、濃霧にまかれた中でシャッターを押した。
頂上では余りゆっくりしていられない。後の日程に間に合わせなければならない都合がある。45分程の休憩で頂上を11時15分に発った。

 「下りは私がトップで行きますよ!」と、木戸氏が先頭を歩き出した。コンサートに間に合わせるには、登山口へ午後3時には着かなければならない。登りに5時間を要している。インスタントパーティーの力量では、下り4時間は必要であろう。彼とて登山を始めたばかりで決して健脚とはいえないが、立場上の責任感から、コンサートの始まる時間に間に合わせる為自分がトップをきったのである。逸る気持ちが痛いほど伝わってくる。私は又殿を歩いた。
 先程通ったお花畑まで来ると朗報が待っていた。遅れたご婦人を援助して3人が登って来たのである。皆拍手で迎えた。そして疲れきっても頑張って登ってきたご婦人と、励ましながらサポートしてきた2人と固い握手を交わした。あと10分で山頂、全員が白神岳の頂上へ登ったことになる。祠の前に並び全員揃って記念写真を写した。
 十二湖への縦走路分岐から急斜面の下りとなる。山での事故はその殆どが下りで起きている。登山道も濡れていて滑りやすい、スリップしてバランスを崩さないよう細心の注意を払いながら降りる。急な下りの途中で、20人くらいのパーティーと行き交い道を譲る。中高年のグループであるが、何処へ行っても女性の比率が男性を圧倒している。しかも皆元気で山に強い。女性の持つ特質なのかといつも感心する。私たちが登り始めた時、マイクロバスが駐車場に到着したが、あの集団であろうと想像した。それにしても、大型バスで先に着いていた人達はどうしたのかなと、一瞬頭に浮かんだ。

 樹林帯に入ると緩やかな尾根道の下りがダラダラと続く、稜線が広いため登山道が窪み、雨が降ると水捌けが悪くそこへまた水が溜まり、登山者が歩くので更に凹んでどうしてもぬかるむ、登山道の宿命ともいえる悪循環である。登山道から一歩外れると山肌や木の幹にも苔が生している。水分を多く含んでいる証であるが、保水力が有り山全体がダムの役割を果たしているのであろう。登山道は緩衝地域とはいえ、その周囲にも太古さながらの原生林の一端が伺えるのである。
 1時間20分で蟶山分岐に着く。これから水場までは30分ほど急な下り坂が続く。
登りはそれほどキツイ傾斜には感じないが、下ってみるとこんな急な坂を登ってきたのかと思うことがよくある。この下りも同様であった。
 地面が濡れているのでスリップに気をつけながら、危険と思われる箇所にはロープが張ってあるので掴まり、バランスを取りながらジグザグに付けられた急斜面を降りる。水場迄くればもう安心である。10分ほど休憩し緩やかな下りを登山口へと戻る。白神平には14時55分に到着する。木戸氏の目標は達成したことになる。しかし、すぐに車に乗って会場へ向うわけにはいかない。

 泥んこになった登山靴を洗わなければならない。私が水道で靴を洗っていると、大型バスの運転手さんが退屈そうに、ぶらぶらして近寄って来た。「お客さんはどうなりましたか?」と尋ねると、「雨がひどかったので途中から引き返してきまた。脚に自信のある人が5〜6人頂上へ向ったそうです」とのことであった。どうりで、山の中で大集団に会う事はなかった。
皆が泥靴を洗うのに時間を要したがすぐ車に乗ってロッジへ向かい、急いでシャワーで汗を流しコンサート会場へ急行した。

 コンサートの主催者挨拶は既に始まっていたが、司会者の気転で順番を変え、どうにか後援会長の挨拶には間に合う事ができた。司会者の気遣いとイライラは大変なものであったろう事は、容易に想像できる空間である。ともあれ、地元実行委員会の皆さんの努力で、観客も多く成功裡に終って幸いであった。

 三日間、残念ながら白神山地をはじめ、東北の山の姿を全く見る事は出来なかった。着いた朝は土砂降りの雨、午後は晴れて暑い日となったが、山は雲の中で姿を見せてくれなかった。岩木山や二ツ森・田代岳・真瀬岳は勿論、白神山地のすぐ目の前に在る山々も、濃霧に隠れて目にする事はできなかった。目下に広がる日本海も、山の上から望めなかった。
 300年前に崩壊し、その土砂で十二湖や現在の地形を形成した爪跡である、日本キャニオンのザックリ切れ落ちた岩肌だけは、十二湖リフレッシュ村への行き返りに何度か目にすることは出来たのだが。

 即席パーティーで山に慣れない人を援助し、協力し合って全員が白神岳登山を果たした。後日サポートした人に、千葉のご婦人から丁重な礼状が届いたとのことである。
白神岳登山を振り返ると、そこには一編のドラマがあったのかもしれない。

■参考資料■
コース所用時間
往路
 白神平(05:30)〜二股分岐(06:10−06:20)〜水場(07:10−07:20)〜
 蟶山分岐(08:05ー08:15)〜十二湖分岐(09:55−10:10)〜白神岳(10:30)

復路(山頂滞在45分)
 白神岳(11:15)〜十二湖分岐(11:30)〜蟶山分岐(12:50)〜
 水場(13:25−13:35)〜二股分岐(14:20)−白神平(14:55)

長谷川恒男(1947〜1991)
 山岳ガイドから日本有数の登山家として名声を博した。
 第二次RCCエベレスト登山隊の一員選ばれ参加するが、その時の経験で組織に馴染めぬ事を知り、集団から外れて単独行の道へ進む。一匹狼的な彼の生き方に共鳴するものがある。
 その後ヨーロッパアルプス三大北壁の、厳冬期単独登攀に成功しその後も数々の単独登頂に成功。彼のモチーフは”単独”であり、国際的にも登山家として注目をあびる。
 彼の絶頂期、単独でグランドジョラス・ウォーカー側稜登頂には、テレビ局が撮影隊を編成してヘリコプターで取材、放映するほど注目された。
 パキスタン・ウルタルU峰南西壁{ウルタル・ヴァレー=デス・ヴァレー(死の谷)}、初登頂に挑むが雪崩に巻き込まれ遭難。若くしてこの世を去ってしまった。享年43歳。
 登攀技術といい精神力といい、その実力は日本で第一人者と評価し注目していた人物であり、登山家として数々の実績を残したが、残念ながらヒマラヤへの登頂には成功していない。
 

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