▼怒りと憎しみをこめて
彼はすぐれた労働者作曲家であるだけでなく、またすばらしい歌い手であり、指揮者でもありました。 「三池の主婦の子守うた」は、二週間後には三池じゅうにひろまっていました。私はたまたま、彼と二人きりで、ひきなれないアコーディオンをかついでオルグに出かけることになりました。三川の団結館というピケ小屋の前で、歌唱指導をしていた時、「三池の主婦の子守うた」をやってくれ、という声がかかりました。彼は私の伴奏で独唱したのです。
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私は、こんなにうたのうまい人がいるんだなあ、とおどろいたのです。何も彼の声がいいの、うたい方がうまいのというのではありません。特に二番の歌詞
目玉を生命を奪われた
たぎる仲間の憎しみを この子に孫につがせよう |
というところ、また三番の
のところなど、目をぎらぎらさせて怒りと憎しみをこめ、力にみちて三池労働者と闘う仲間の心を、真実に表現していました。私は、うたはこうしてうたうものだと教えられたのです。
また、これは何度目かの統一行動でいっしょに、うたごえ行動隊のはちまきをしめて、ホッパー前に行ったときのことです。司会者が「憎しみよ燃えろ」の指揮を荒木栄さんにお願いしましょう、といいました。 |
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彼はにこにこしてポンポンと仲間の列をとび出すと、労働者の間から大きな拍手がわきおこりました。 彼はどんなにか労働者に親しまれていたことでしょう。しかし、彼が指揮を始めると、するどい目つきに変わりました。いつも仲間の中にあって、仲間の気持ちをうたいあげ、彼らの心をうたで励ましている彼の姿を私はそこに見たのです。
▼はちまき固くしめ直し
これも二度目に三池に行っていたときのこと、ちょうど7月なかばで、西日本のうたごえ(八月十三、四日)にむけ、アコをかついで歌唱指導に歩いていたときのことです。 |
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荒木君の妹、前原桃枝さんが「はちまき固く」の詩を書いて、持ってきてくれました。私さっそく作曲し、緑ヶ丘住宅の主婦会で歌唱指導したところ、すごくうけ、おくさんたちは涙をながして感激してくれました。
そのことを荒木君に話して譜をみせたのですが、彼は、「まだ労働者的なものが足りない」というのです。長くきびしい闘いを闘いつゞける三池の主婦たち、三池労働者や支援オルグの仲間たちのために、六十度もの熱い釜のそばでにぎりめしの炊き出しをやり、はちまきをしめ直して働いている主婦たちはこんなものではない、まだまだきれいすぎはしないか、というのです。 私はまたケンカをしました。主婦たちは現に感動してくれたじゃないか。荒木君の「もっとどろどろしいもの」という、すごい労働のなかみということはよく分かるのですが、とにかく主婦たちが涙を流して感動してくれたのは初めての経験でしたので、私もゆずれなかったのです。 |
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結局、私たちは、この一曲だけで勝負することはしないでおこう、もっとこれから沢山つくり、その中で深めようじゃないか、と約束し合いました。この約束の中から私の「不知火」が生まれたのです。
▼ほんとにいい歌だなあ
ところで、西日本のうたごえにむけて、主婦たちがこの「はちまき固く」を練習しているのを聞いた荒木君は「あの歌はほんとにいい歌だなあ」といいました。私はどうもすっきりしませんでした。ついさっきまで悪く言われていたばかりでしたから。
しかし、彼は主婦たちがうたうのを聞いて、率直に言い直したのです。もちろん私の曲の弱点を、主婦たちの声が補ってくれたのかも知れません。 |
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が、彼が作曲家としてではなく、同じ斗う仲間として私の曲を聞いてくれていた、ということには、彼の率直でかざり気のない、すばらしい労働者気質に気がつくのです。
▼ついに君も書けたね
荒木君は大変こまかい愛情の持ち主でした。負けん気の強い私たちは、よくケンカもしましたが、三池の斗いを通じて、彼はたえず私の弱さを支えてくれ、なんとか私がうたごえの隊列の中で、すぐれた書き手になるよう努力してくれたことを、今、思うとしみじみ感じるのです。本当に彼を兄貴のように感じるのです。
三池の斗いに参加して帰ってから、その年の八月の末、私は森田ヤエ子さんの詩「不知火」を作曲しました。 |
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私の作品を今まで一度もほめたことのなかった彼が、これを聞いて、こういってくれました。「すばらしいうたをどうも有がとう。ついに君も書けたね」
この曲を私個人の作品としてでなく、同じ戦列の中で斗った斗いの中から生まれたものとして、三池の仲間全部を代表するかのように言ったのです。「不知火」は六〇年九州のうたごえ(十月三十日小倉)で圧倒的に好評でした。
こうして、私自身、三池の中で学びえたことで、うたごえのうたの製作に先進的に取りくむようになったのです。 (つづく)
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