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荒木栄の作品と生涯から |
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■下の文章は「荒木栄の作品と生涯から」シリーズの前文と思われます。「82日のストライキを支えた歌」の部分に書いてありました。 | |
十一月二十六日は、労働者作曲家荒木栄の七周忌になります。いま、全国で「荒木栄の生涯と作品をしりたい」「創作態度と生き方を学びたい」の要求がたくさんあるのにこたえて、音楽センターでは「荒木栄作品集」も出版を企画、関忠亮、宝木実、木下そんき、神谷国善、坂山安子さんらを中心とした編集委員会を設け69年日本のうたごえ祭典までに出版する準備をすすめています。 そのためご遺族や生前交友のあった人をはじめ全国にひろくよびかけ、資料(手紙や写真楽譜など)の収集の協力や、荒木栄とその作品について書いていただくよう依頼しております。次の花田克巳さんの原稿はその第一報ですが、本の出版に先立って、うたごえ新聞を通じて逐次発表させていただきます。 |
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荒木栄と私との出会い。それはあの三池闘争のさなかの三十分にしか過ぎない。 三池労組組合事務所前のうたごえの仲間たちが泊まり込んでいた小屋(三池支援うたごえ行動隊現地本部)で多分森田八重子の紹介だったと思うが、彼と話しあった。話した内容はすでに記憶にないが、話し終えて直ぐ前の広場に飛ぶようにして行き合唱の指揮をしていた後姿、力強くふりまわしていた腕は、いまも私の脳裏にやきついて離れない。この三十分が私の初めてのそして最後の出会いとなった。 森田八重子が、私にぜひ詩をかいて荒木栄に作曲させろとハッパをかけるので、書いて送ったのが「かなさび」だった。彼は気のりしなかったのか、作曲をせず、結局、玉置利雄が作曲した。 三池闘争にひきつづいて、私の炭鉱も八十二日間の無期限ストライキで、宇部興産資本の「合理化」攻撃とたたかった。「がんばろう」をはじめ、三池闘争で覚えた歌でたたかっていたがみんなから「どうしても俺たちの炭鉱のたたかいの歌がほしい」という声がまきおこった。この声にこたえて、私が書いたのが「宇部興産炭鉱労働者のうた」と「三池で燃やした火を燃やせ」である。私のまわりには作曲者がいない。そこで速達で、「宇部興産炭鉱労働者のうた」の作曲を依頼した。一週間足らずで、曲と手紙が着いて帰ってきた。ひきつづき「三池で燃やした火を燃やせ」の作曲を依頼。これも同じスピードで曲がついてかえってきた。 この二つの歌が果たした役割を、私は生涯忘れることはないだろう。資本家と社会民主主義組合幹部がねらっていた闘争の二週間の妥結はふきとんで炭鉱の歴史はじまって以来の大闘争となった。うたごえは進軍ラッパのように、炭鉱中に、いや宇部全体にひびきわたった。 この二つの曲をつけたときの彼は、「創作上の問題をもっとほりさげてみるため、しばらく創作をやめて勉強してみたいと思っていたところ」(三十六年三月九日付の手紙から)だったのだが、宇部の炭鉱労働者の要請にこたえて、直ちに作曲にとりくんでくれたのである。 このことと、私の詩に対し、「たたかいの息吹きと八十一ヵ国共産党宣言の力強さ」を深く身につけよという彼の言葉は、私の心に背骨(はいこつ)のように、がんじょうな坑木のように、私をささえ励ましつづけている。自分の都合で書くのではなく、闘いの鼓動にあわせ、その要請で書くこと。革命的な力強いたたかいの息吹を必死に身につけること。荒木栄が生命を削るようにたたかってつかみとった教訓はこれでなかったのか。 「地底の歌」が、つぶされた炭鉱に生きぬく私の心で、途だえることなく鳴りひびいている。(現宇部市議会議員) |
作成(2008/01/10) by bunbun | pagetop |
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10月がやってくるたびに、栄さんを思いだす。「こんな日、風に吹かれて外を歩いたら、どんなに気持がよかろうか」と熱にあえぎ、痛みをこらえながら、心を、火の国の山野にはしらせ、全国の仲間から寄せられた激励の手紙や寄書、見舞電報などにうずまり、暖い家族と、大勢の仲間に見守られていた日。 わずかな時間、意識をとりもどそうとする頃合いを見計って看護婦が私を呼ぶ。「荒木さん、荒木さん、荒木さん、荒木さん、森田さんよ、森田さんよ、森田さんよ、ヤエさんよ」と胸をさすり、あるいは軽くたたきながら、何べんものこの動作で、意識がよみがえった時のうれしさ。 「有りがとうね」「有りがとうね」と何度もお礼をいいながら、栄さんの言葉を待つ。「ヤエさん!! よく来てくれたね。作詩を持って来てくれたかい。君と僕は実にたくさんの歌をつくったね。よくケンカもしたね。早くよくなって、またたくさんの歌をつくろうよ」もうろうとした意識のなかに、私の差し出した手のひらに、かるく手をのせ、笑顔の中の瞳孔が、大きく開き、秋の夕映えに輝き、満ち溢れた。 奇跡はおこらなかった。臨終まで私の名をよび、ひたすら歌詞の要求をつづけ、創作歌曲への限りない情念をつらぬき通した生涯だった。 私との仕事は三年に満たないわすかな時間だったが、圧縮された、貴重な時間だったことをいま六年忌をむかえるにあたって、「頑張ろう」に添えられた栄さんからの書簡を公開してみたい。 『大変立派な詩をありがとう。”おれたちの胸の火は” ”闘いはここから”ともに作曲を終わり”闘いはここから”の方は昨日レッスンでうたい、大変好評です。こんどの日曜日、ホッパー前でひらかれる「三池を守る全国うたごえ大集会」に、あなたが出席されることが出来たら、両曲とも聞くことができるとおもいます。 すぐれた詩は、かならずすぐれた曲のイメージを生みます。あなたの詩によって、ぼくは、創作上のゆきずまりの道に灯をともしてもらった思いです。これから意欲的な創作がいくらでもできそうです。 “闘いはここから”は実にうつくしい印象的な情景が概念におちいらずにとらえており、うたごえの詩としては最高です。“もえつくす女のこぶしがある”というところ、昇華された美しさに涙が出る程です。曲はまずこの部分から作りました。絶対に自信があります。 いろいろとくわしく書きたいのですが、五日にぜひいらっしゃい。ホッパーでこの曲の真価をたしかめましょう。さしあたりコッピーの楽ふを同封します。 “おれたちの胸の火は”の方は、まだプリントしてませんが、三作の男声のレパでうたう予定です。五日のことについては、連絡があったと思いますが、安保の闘いの最高潮のときにあたり、今こそうたごえの力を、売国奴どもに示してやりましょう。スケジュールは 午前九時〜十時準ビ 十時〜十二時レッスン 午後〇時〜一時 市市内大行進 一時〜四時ホッバーにて大会 四時〜五時市内大行進というふうになっています。とりいそぎ御連絡まで。』 鉛筆の走り書で、創作の基盤を常に、合唱団におき、作品の評価を広く、深く、労働者の階層に求め、創作上の伴侶としての私を、「5日にぜひいらっしゃい。ホッバーでこの歌の真価をたしかめましょう」という、いざないこそ、“がんばろう”は人民の一大集団創作であり、人民の共有財産としての「創造」であったと言って、決して過言にはなるまい。 |
作成(2008/01/09) by bunbun | pagetop |
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「星よお前は」は私の最も得意とするレパートリーの一つです。今迄に何回位歌ったか思い出せない位さまざまな所でうたってきました。それらを通じてあらためて解った事は、この歌には日本人なら誰でも親しみを感じるものがあるという事です。 その感動のひろがりをいくつか紹介すると、つい先日私の第二回リサイタルでアンコールにこれを選んで歌った所、農林省に勤め、ふだんは自民党の農業政策をおしすすめている立場にある方がとても気に入ってぜひおぼえたいから楽譜を送ってくれというのです。この方の奥さんと親しくしているのですが、ご主人はなかなか頑固ときいていましたので驚き、又とてもはげまされました。この時は外山雄三氏のピアノトリオの伴奏編曲を、白樺の中山英雄氏にピアノだけでも伴奏出来るように、バイオリンとチェロのパートもピアノに直して貰い、是安亨さんのピアノによって演奏いたしました。 昨年の二月、日本音楽舞踊会議の演奏家の夕べでもうたいました。この時は、林学氏の「大須っ子」と山村久氏の「ベトナムの少女」と共に「星よお前は」をうたいました。他の二曲も含めて音楽学校在学中の方とか、卒業間もないと言った若い方達に強い印象を与えたようです。この方達は、日本人の生活と社会の発達に深い関心を持っている方達でしたが、あっちからもこっちからも楽譜を貸して欲しいと云われて、てんてこ舞いをしました。この時は芸大出身の若い作曲家牛腸征司氏のものを田村慧子さんのピアノでうたいました。 その他、東京をはじめ各地労音のステージとか、合唱団白樺の発表会とか、うたう会あらぐさの荒木栄音楽会等でうたって来ました。ある時はソノシートに吹き込み、又ある時は夏のキャンプファイアのそばで聴いてもらいました。 一九六四年の私の第一回リサイタルではこの「星よお前は」と共に「仲間の歌」「せんぷりせんじ」等をとりあげました。リサイタルで荒木栄の作品をうたったのは恐らくこれが初めてと大変誇りに思っています。この時の「星よお前は」は吉田栄さんのピアノと井上頼豊氏のチェロに助けられて、リサイタルの曲目の中でも最も感動を呼んだ演奏となりました。 またそれ以前に川越市の高校でうたった事もあります。この学校は男声合唱でいつもコンクールに良い成績とっているいう事でしたが、コーラスを指導している先生と部員の人達がこの歌に感激していた姿街までも目に浮かびます。そして一昨年やはり埼玉のある教会付属幼稚園でうたった時はそこの牧師さんをはじめ園児の父兄達が大そう喜んで聴いてくれました。 なぜこのように感動が広がったのでしょう。それは第一に荒木さんの他の曲にも云えることですが、大衆の言葉と大衆のメロディーによって、深い内容(この歌の場合は去って行く仲間に対する働く者としての深い信頼)がこめられているからです。これはただそうしようと思ってすぐに出来たことではなく、又理屈で考えて組み立てられたことでもなく、大衆の中にあって生活し学習し労働者の未来について深い洞察を自分の血肉として来たばかりか、歌を通じてそれらを大衆のものにしようと闘って来たからこそ生み出すことが出来たのだと言えると思います。 このような作品は今では数多く生まれつつあると思いますが、もっともっと多くの歌い手が、荒木栄の作品やそれをうけついだ日本人民の歌を演奏し、その感動を広げることを期待したいと思います。 私もより多くの人達により深い感動を伝えられるよう一層がんばりたいとおもいます。 (1969年9月 合唱団白樺) |
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荒木さんは、今から七年前の1962年10月26日、大牟田市の米の山病院で肝臓ガンのため、38才の短い生涯を終えました。彼は危篤状態になってからも一ヶ月もの間もちこたえ、かすれる声をふりしぼって言いました。 「ぼくは死というものが、ふしぎなくらい恐くない。しかし今くらい死にたくないと思ったことはない。ぼくには、やり残したことがうんとある。それをやりとげずに死ぬのが残念だ」「死とむかいあってみて、労働者の天下が必ずやってくるという確信が、ますます強くなった。それがうれしい」 荒木さんは死ぬまぎわのうわごとにも「日本共産党ばんざい! センター合唱団ばんざい! かあちゃん、苦労かけてすまん」といいつづけました。病室には、全国から寄せられた激励電報や寄せ書きの赤旗がいっぱい飾られていました。 11月4日、日本共産党大牟田地区委員会は、地区党葬をもって荒木栄の生前の業績をたたえ、かれの遺業をひきつぐ決意をささげました。葬儀には、共産党、社会党、労働組合、民主団体、うたごえなど400人の会葬者があり、沖縄人民党からも「”沖縄を返せ”の偉大な作曲家の死をいたむ」という弔電が送られてきました。次の詩は、その時弔読したもので、七周忌を迎える今日、たたかいのあるところ、うたごえのあるところ、生きつづける労働者作曲家、共産党員荒木栄同志に捧げたものです。
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作成(2008/01/09) by bunbun | pagetop |
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今日いろいろなかたちで「荒木栄から学ぶ」活動がひろがっています。それは非常に大切なことですが、作品の表面的研究であってみたり、伝記研究のようなものであってはならないと思います。そうではなく、荒木栄の思想性、作品の作り出された社会的背景その中での創作態度、死ぬまぎわまで決しておとろえることのなかった炬火のような情熱などについて、深く学ぶ必要があります。 それは七十年代のたたかいの中で果たす文化活動の役割がますます重要になっており、このたたかいに奉仕する数多くの創作活動家と作品をつくりだすことが、とりわけ大切です。その点で、今度音楽センターから、「荒木栄作品全集」が発刊される意義は、はかりしれないものがあります。 荒木さんは、きびしいたたかいの中での活動で、当然ゆっくり作曲する時間などありませんでした。職場での休憩時間に、メモ用紙に作曲し、統計事務の仕事の合間に数字譜で作曲し、紙がない時は地面にかきつけ主婦たちとの話しあいの中で、主婦からチリ紙をもらって作曲をつづけました。 デモの隊列の中で、その足音がリズムとなり、警官と対峙する労働者のスクラムの中で、仲間のハダのぬくもりが旋律となりました。ビラ配布の中で、作曲の素材をさがし、新聞をひろげる中で、作曲の構想をくみあげ、偉大なたたかいへの道を決意する労働者の顔にあたらしいオタマジャクシをえがきあげた彼………。彼ほど人民大衆の中にある無数の創造性をくみ出した人は知りません。しかし、それが、そのままひとりでに詩となり歌となるわけではありません。一人ひとりの中にある創意を組織し、作品にまとめあげるため、睡眠時間をへらし、肉をけずっていったのです。 彼は、ほとんど五時間以上ねむったことはありませんでした。よく忘れものをするので有名でしたが、せのせいかもしれません。しかし、私たちが一番敬服するのは前夜遅くまで話しあった内容を必ずといっていいほど、詩なり曲なりにして、もってくるということでした。これは、荒木さんが仲間たちの一番必要としているものに真っ先にこたえることを、生活の上でも創作活動でも、モットウとしていたことのあらわれです。 このことが私たちが荒木さんから学ぶ第一の点だと思います。それは、労働者や主婦、仲間に限りない愛情をもっていたからです。従って、その歌はより多くの人に親しみぶかく、うたいやすいものになっています。 荒木さんの三十八才の生涯、それは、人民とうたごえ運動への献身に、すべてを優先させ、ひたむきにいき抜いた一生といえるでしょう。 |
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元大牟田センター合唱団団長/大牟田労音事務局長 |
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どこにでもいるようで、どこにもいない。荒木さんはそんな人です。あったかくて、親しみやすくて、社宅のおばさん達ともすぐ仲よくなり、夫婦生活の話から、よろず相談役だった荒木さん、忘れっぽいことは有名で、話がはずんで暑くなると、上着やシャツまでぬいで話しこむ。そしてぬいだものを必ず忘れて帰っていく。荒木さんのおった後は、あとざらいせんけりゃだめでした。 はじめの頃の荒木さんはロマンチィストで、歌もそんなものをつくっていたのに、あの三池の闘争の中で、荒木さんはすっかり創作態度をかえてしまったのです。わき出る泉のように、私たちの闘いの心をくみあげ、うたにしていきました。 人間味のゆたかさも、その頃からいっそうゆたかになったようです。彼のゆきつけのバーで、ビールをのみながら、じっくり闘いの姿勢を正された仲間もいっぱいいます。おそくまで会議したのに、翌朝はもう朝早くからビラを配っていた荒木さんは、いったい、あの数多くの歌を、いつどこで作っていたのでしょうか。 荒木さんは、いまも私たちの中にいきています。「がんばろう」をうたいながら、私たちは、私たちはホッパーをうちたてる活動を続けます。「心はいつも夜明けだ」をうたいながら、日本の夜明けをめざしてたたかい続けます。 (1962年12月20日付 新婦人新聞から) |
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「池田政府の反動政策と無能さをあざ笑うかのように、人命・家屋・田畑を奪った集中豪雨の通り魔に憤激の炎を燃やした幾日かが過ぎ去り、いまは強烈な真夏陽のもとで、今日と明日へのたたかいがつづけられています。病床の窓をあけて吹きそよぐ風の快さの中にいると、活動から遠ざけられたいらだちの奥に、ゆるがぬまでに固まってきたたたかいの思想と、生きぬく根拠の力をはっきり感じる自分があります。 | ||||||||
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