エンヤコラ子守唄 【G】
+すずききよし作品集+

作詞
作曲
すずききよし

■エンヤコラヨイショ オコロリヨ
■坊やはよい子だ ネンネしな
■エンヤコラヨイショ オコロリヨ
■母ちゃんはここにいる
夏の陽が照りゃ坊やは木陰 
毛虫来ぬかと気にかかる

■エンヤコラヨイショ オコロリヨ
■坊やはよい子だ ネンネしな
■エンヤコラヨイショ オコロリヨ
■母ちゃんはここにいる
冬は木枯らし坊やは背中
霜焼けほっぺが真赤だよ

■エンヤコラヨイショ オコロリヨ
■坊やはよい子だ ネンネしな
■エンヤコラヨイショ オコロリヨ
■母ちゃんはここにいる
秋の風吹きゃ坊やは元気
雨のあぶれがなけりゃよい
■エンヤコラヨイショ オコロリヨ
■坊やはよい子だ ネンネしな
■エンヤコラヨイショ オコロリヨ
■母ちゃんはここにいる
春は近いぞ坊やよ泣くな
みんなの保育所ができるよと

■エンヤコラヨイショ
■エンヤコラヨイショ
■エンヤコラヨイショ
■エンヤコラヨイショ




新おけら歌集(04/02/17) / 楽譜:ビーさん(2005/05-13/09)

■1959年当時、来るべき60年安保に向けて、弾圧の嵐がそろそろ吹きかけて来た頃、既に炭鉱の合理化が始まり、筑豊地方の炭鉱が荒れに荒れ、大手が経営を投げ出す炭鉱を、中小企業が買い取り、より劣悪な条件で炭鉱労働者たちが、数多く犠牲者になっていました。
 ハモニカ長屋と呼ばれた炭鉱社宅の壁板まではがし、燃料にしたり、女子中学生の生活の為の売春などの暗いニュースが問題になっていた頃です。
 私は、大阪の富岡工業株式会社のサラリーマンで、関西合唱団員であったのですが、その前の年、会社始まって以来の闘争をやって勝利はしたのですが、委員長として争議責任をとって、九州に転勤となり、九州青年合唱団に転籍していました。
 うたごえオルグとして、「炭住のお母ちゃんたちのうたごえや、子供のうたごえを
組織して、お父ちゃんたちの戦いを支えよう」と、仕事の合い間を縫って駆け回りました。福岡の中央電電の、[全電通うたごえ]の指導をしていた時、配置転換された仲間を、励まして作った[夕べのうたごえ」もその頃です。

▼三井三池の闘争にうたごえオルグとして参加したり、1960年安保闘争が終わり、一方、会社は松下に吸収合併、仲間たちは絶望的なストに突入していて、「このままでは合併条件で組合員が不利だ」と、温情派の社長と委員長が、「帰ってまとめてくれ」との事で帰阪。松下と交渉し最高の条件で解決し、私は退職しました。

 その後、労音に出演の為、筑豊の炭鉱地帯を訪れたら、かっての「炭掘る戦士」たちが、失業対策の、2コヨン、一日2300円、100円の賃上げに3ヶ月闘争と言う状況でした。
 その現場で、昼休みコンサートしたら、貧しいオカズ代から「兄さんこれでジュースでも飲んで」と、小母ちゃんたちが私のポケットに皺くちゃの500円札をねじ込むのです。 そのとき作った歌が、「エンヤコラ守歌」なのです。
すずききよし(2004/02/16) 「bunbunへのメール」から抜粋