三池の闘いの不屈の闘魂!(荒木栄)


荒木栄「指揮者」

■速達を拝見しました。宇部興産炭坑労働者の闘いをを注目しております。三池の闘いの不屈の闘魂が宇部の仲間にうけつがれることでしょう。御依頼の創作曲をお送りします。
 実は、創作上の問題をもっと掘り下げてみるために、しばらく創作をやめて勉強してみたいと思っていたところでしたが、宇部の闘いにふれ、創作の必要を感じましたので、とり組んでみました。あなたの作品には、もっと欲をいいたいのですけど、これをこの闘いにおけるはじめの作品として、ふかく闘いの心にふれてゆかれることを希望します。

 メロディについては、あまり自信もてませんが、大衆の中にもちこみ、ふたたびそれをとり出すという態度で今後とりくんで行くことが必要だと考えます。御健闘をいのります。 あとで、この歌の状況、闘いの状況などお知らせ下さい。尚、この曲のコッピーをとっておりませんので、プリントでも一枚お送り下さい。   3月9日  荒木 栄

1961年03月 「花田克巳への書簡」より

荒木栄「右側中央」

■第一回技能養成コンクール出場の日

メーデーで指揮!

 昭和一四年四月、支那事変がようやく長期化の様相を帯びかかった頃、みぢかい未完成な学業をすて、いわゆる人生の第一歩である職業戦線にケナゲな投身をした。今から思へばそうなのであるが、その当時は、職業が人生の第一歩だとか、滅私奉公などと殊勝な考え方を起こしたわけでもあるまい。
 ただ親の云うまま、先生や良識たちの云うままに従ったにすぎない。無理ないことである。いくらかでも家の経済をたすけたい。先生たちのいう、社会の荒波にもまれる勇敢な若者になりたいと思う。善良な夢多い少年であって見れば………
 性情とは凡そ似つかわしくない、機械屋を職業にもったことは、幸か不幸か、いまは語れることだ!
1954年08月17日 「アルバムの書き込み」より・・・

■青年の力強さと明るさで!


 作曲法も、和声学も、まるで素人の私か歌をつくりはじめたのはいつの頃からだったか、もう記憶にありませんが、とにかく合唱生活を通じて、いくつかの歌を生みつづけました。ここにまとめたのはその一部ですが、私にとっては、どれもかわいい子供たちです。
「炭鉱ばやし」の意外な好評に、われながらおどろいた次第ですが「歌は、多くの人ぴとの気持になってつくるとき、生きたものか生れる」と常々考えていたことか当って、うれしく思い、かつはげまされた次第です。
歌は誰にでも作れます。記譜することの出来ない人でも、合同創作によって、メロディをひき出せますし、またそのような中からこそ、「しあわせのうた」ようなすばらしい曲も生まれます。高等な作曲技術を身につける前に、みんなの中で物を考え、みんなの心をうたいあげるという創作意欲が、名曲を生み出す基本です。 


「荒木栄創作曲集」中 荒木栄のことぱ【はじめに】1956年10月20日 荒木栄手書き「主婦の子守歌」



荒木栄「最前列中央」

■主婦たちの言葉を大切に 小山美智子(元大牟田センター合唱団員
 荒木さんは、人の発言をほんとによく聞いて、身体そっくりな小さな、きれいな字でぎっしりしりノートしていました。一つの例ですが、ある地域の座談会で、おぱさんたちがいった。「父ちゃんたちは、雨のふる晩な、ほんなこてつらかろうな、長い闘いじゃけん、体は大切にしといてもらわにゃいかんな。腹巻から綿入ぱんてんのいるばい。腹んぬくもっとにゃ、たまご酒がいちぱんタイ」。
 ピケに立つ夫を案じる妻の生き生きとした感情をそのままうたいあげた「三池の主婦の子守歌」は、このようにして、みんなを大切にする荒木さん手で仕上げられたです。

いちばん右
 座り込む炭鉱電車のなかで、線路の上で、ビニール小屋で、団結小屋、国家権力に対して一歩もひかなかった炭鉱の男たちが、目をゴシゴシこすりながらうたいました。そこには父ちゃん、母ちゃんのつながりをのりこえ、闘いのなかで同志としての高いきづなを深め、闘争終結後の人権無視の生産再開のなかで創作された「地底のうた」のなかにある同志愛を生んでいったのだと思います。

 三池の闘いのなかで、昼間は三池製作所に勤務し、ひけると大牟田センター合唱団と研究生の指導、現地指導部の仕事、それにうたごえ行動隊で夜明けまでピケ小屋、社宅、地域に入り、激励の公演、創作曲をみんなにかえし、統一と団結の思想を話し込んでがんばりました。日曜日には、朝早くからやってくる全国のうたごえの仲間といっときの休みもなく、あの小さな身体で、孫悟空みたいに動きまわりました。だから、いつ、どこで、どんなにしてあんなに多くのうたを創作したのか、今もって私には不思議に思えてなりません。

 
BGM:しばらく静寂…
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