紅葉が淵の子守唄 【Dm】
+すずききよし作品集+

作詞
作曲
 すずききよし


ねんねんころりよ おころりよ 山は津野山 雪の山 
 ■ネンコロロ ネンコロロ ネンコロロ
山の根雪も 東風(こち)吹けば とけて流れて井桑(いそう)
 ■ネンコロロ ネンコロロ ネンコロロ

井桑の川の 川上に 長者の屋敷が ありました
 ■ネンコロロ ネンコロロ ネンコロロ
長者の山から 朝日が昇り 長者の田んぼに 日が沈む
 ■ネンコロロ ネンコロロ ネンコロロ

屋敷のかみさま 良いお方 朝晩まんまは 山の雪
 ■ネンコロロ ネンコロロ ネンコロロ
山の雪でも 奥山雪は 中の方まで 未だ白い
 ■ネンコロロ ネンコロロ ネンコロロ

こんこん小雪よ うんと降れ 雪が積もれば お正月
 ■ネンコロロ ネンコロロ ネンコロロ
お正月には 何着ていぬる 紺のおべべに 赤い帯
 ■ネンコロロ ネンコロロ ネンコロロ

子守の指は 何処へ行った 井桑の川のそのほとり
 ■ネンコロロ ネンコロロ ネンコロ
色美しく 葉の茂る 赤い紅葉となりました
 ■ネンコロロ ネンコロロ ネンコロロ



新おけら歌集(04/12/12) / 楽譜:ビーさん(2004/12)
楽譜送付の件
(2004/12/07/15:46) すずききよし
■ぶんぶんさん、先日は美味しいりんご有難うございました。

 予告していながら楽譜の送付が遅れていました。この子守唄の謂われをちょっと書きます。
 高知県の四万十川といえば、全国的に有名な川ですが、この川の源流に梼原町(ゆすはら)と言う町があります。現在もお茶などが名産品として知られています。
 明治維新の時坂本竜馬と共に暗殺された中岡慎太郎もここの出身で、竜馬とともに脱藩して、京都に上ったのは、ここから伊予へ山の中の抜け道を通って行ったのです。いまは『維新の』道と標識も立って観光コースになっていますが、昔は貧しい寒村でした。
 『耕して天に到る』と言われる狭い『千枚田』の貧しい収穫しかない農村です。貧乏の子沢山の子供達は、女の子は口減らしの為、6、7歳になると子守り奉公といってもドレイ奉公でした。
 この地方には『子守り傘』といわれる傘があります。前半分が破れており、そこが子守りの頭で、後ろが赤ちゃんの頭になるようにさすのです。 地主の内儀さまは、酷い人が多く、残酷な民話がたくさん残されてます。

 当時の子守が、全国的に奴隷奉公であることは、前にのべました。三度の飯は、一見、白飯の山盛り、実は中は真っ黒の麦飯、外側に白飯を塗りつけてあるだけ、山に積もる雪の方が深いから白い所が多い」と言う意味です。

 ある年の田植え時、その日は朝から雨で捗らず地主のお上さんは、イライラしてました。
 子守は背中に地主の赤ちゃんを背負い、子守傘で赤ちゃんは無事ですが、子守はビショ濡れで、手伝ってました。やがて田植えが終わると、『赤子を貸せ』と引ったくり自分セナに背負い、さっさと井桑川(いそうがわ)を村の方に渡りました。
 朝は水量が少なかったが増水して,幼い子守は恐ろしくて渡れません。大人は皆渡りました。「早く来ないか?愚図!」 屋敷のお上さんに怒鳴られ、子守は川の途中まで、飛び石伝いに渡ったものの、立ち往生していると、『この愚図が』と途中までお上さんが戻ってきて『これに縋れ』と鎌を刃の方を向けて差し出したのです。
 お上さんの命令を信じて、子守がそれに縋り、中ほどの深い所で、よろめいた所を『早く来ぬか』と鎌を引きました。
 指の切れた子守は悲鳴を残して川に落ちました。翌くる朝、梅雨晴れの青空の下、井桑川の下流の淵に指のない子守が浮かんでいました。
 その年の秋から、その淵には血で染まった真っ赤な子供の手の指のような紅葉が美しいく茂る様になりました。やがて、長者の家運は急速に傾き、とうとう滅びてしまったそうです。
 この民話をもとにして、作詞作曲したのがこの『紅葉が淵の子守唄』で、オリジナルはハープと小編成の管弦楽で作曲したものですが、「筝と尺八で再現したい」とリメイクしたものです。
………歌詞は省略………
 本当は、これがモチーフで、全部で30分ほどの「舞踊組曲」になってます。
 それでは、「おやすみなさい」 この子守唄で眠れますかな?

おけらが結ぶ音楽のえにし
(2009/06/15(Mon) 22:24:56) きよちゃん
♪「bunbunさん今晩は。
 今日、事務所に、奈良で邦楽の生田流の総師範をしておられる方がお越しになりまして、いろいろと3時間ほどお話しました。
 この方は、東京芸大のご出身で、洋楽のクラシックの声楽を修められた方ですが、洋楽界にいろいろ、と矛盾を感じて邦楽の世界に入られた方ですが、先日偶然「おけら」にUPされている沢山の曲の楽譜や歌詞を見たり、midで聞いたりして、その中の、「紅葉が淵の子守唄」を聞いて、「これだ」と思ったというのは、この方は、シルバーコーラスを、指導しておられるそうですが、

 発表会に向けて「邦楽的な作品で、ご自分が、別に指導しているお琴の皆さんとコラボレーションを考えていたら、この曲に巡り合ったのです。 是非楽譜を分けてください」という電話から、今日の来社になったのです。[mid]も大変よく出来ていて邦楽の感じがよく出ていました]と、ぶんぶんさんことも褒めていました。

 原曲の室内楽、13人編成のテープを聞かせてあげたら、[ああ良かった、私もこんな感じのの編曲を考えていました。13弦筝が2パート、17弦筝が、1パート、それに尺八の長さを変えて、2パートは必要でしょうね。
出来れば、胡弓も入れたいな」などと話が弾むうち、沢山共通の音楽家達が話題に上がりました。邦楽の人だけでなく、洋楽クラシックの作曲家、指揮者など、話が尽きず、午後5時近くまで在社していました。元の組曲でお聞かせしたので(木挽き唄や、田植え唄等の伝承的な現地の唄を含め、プロローグからフィナーレまでの、緊張した30分の曲)そのテープもコピーしてあげました。

[ベルリンの作曲家同盟の会合で大きな評価を受けてことを話すと、「まさにこういうのが本当の国際性ですよね。」いろいろ話は尽きませんでしたが、「リハビリに病院に行かなきゃならないので」と再会を約してお別れしました。いろいろと更に交流が深まりそうです。

 ぶんぶんさん、おけらを通じて楽しい出逢いを有難う御座いました。