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「関 鑑子」伝 (青地 晨)

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1) 関 鑑子 讃
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1956年4月(知性増刊「日本のうたごえ」)

 はじめて関鑑子さんにおめにかかったとき、わたしはおどろいた。予想とはまるで人柄がちがっていたからだ。スターリン平和賞の受賞者、うたごえ運動の最高の指導首としての関さんに、わたしが女史型を想像したとしても、これは仕方がないことだ。日本のエライ女性たちは、シッカリ型かヤリ手型か、いずれにせよスキのないヒモノのようなタイプが少くない。ところが待っていたわたしの前へあらわれた関さんは、まるでみずみずしい水蜜桃のような人柄であった。讐かな人間性と童女のようなふくよかさをあわせもつ人だったのである。

 関さんは明治三十二年の生れだ。だから童女という形容は明らかにふさわしくない。だが顔や姿の年輪をこえて、豊かな人間性と若若しさが、光の輸のように関さんをとりまいているのであった。あるいは光のかげろうとよんだ方がよいかもしれない。それはおそ春のかげろうのように彼女をめぐってゆらゆらと揺れて〜たのだから。

 それから数日のあいだ、わたしはこの伝記を書くために関さんの許へかよった。だがわたしはいまでも、関さんという人が本当にはつかめない。それはわたしが既成の人間の鋳型にあてはめて、関さんを割りきろうとしたからだろう。また関さんはきわめてオリジナルな人で、日本の人間類型としては大変めずらしい人である。彼女のひとつの特徴は既成の概念や公式で問題を割りきるうとしないことだ。だから彼女自身も、既成の物差しで割りきることはむずかしい。

 そのオリジナリティの豊かさは、明治の自由な知識人の家庭で育った二人の同年輩の女性−−宮本百合子と富本一枝を連想させる。この二人のすぐれた女性ば、いずれも建築家や画家の家に育ち、知的で芸術的な雰囲気と、いわゆるブルジョア・リベラリズムの栄養分をタップリと吸い取って自我を生長させた。そして熱烈なトルストイアンの立場から、やがて進歩的な思想の側へ、きわめて自然に移行したヒューマニストである。
 むろん関さん、宮本さん、富本さんの三人のパアソナリティは同じではない。だがこの三人はなによりもヒューマニストである。まだ肥料のよくきいた土に根をおろし、ふとい幹を豊かな樹液か絶えまなくめぐり、濃縁の厚い葉を層々とかさなりあわせている−−という印象にもかわりはないのである。ことに三人の女性のなかで、こうした即象をもっとも強くうけるのが関さんである、彼女は大木ではあるが、野中の一本杉ではない。熱帯のジャングルのなかにひときわ高く生いしげっている一本のゴムの樹−わたしは関さんにこのような印象をもったのであった。

 だが、野中の一本杉とちがって、ジャングルのゴムの樹は単純ではない。生一本なお嬢さん育ちと酬いなく人民に奉仕する生活、きわめてオリジナルな思考と一本のふとい思想的背骨、育ちからきた洗練された趣味と合唱の集団生活にとけこんだ簡素な私生活−こうしたアンバランスが関鑑子という一個の女性のなかに併存する。たがいに矛層しあう諸要素が総合され、あるいは統一されたのが、関さんという人聞像なのだ。

 だがこうしたことが観光道路を自動車でドライヴするような快適さとスピードで達成されたとみるのば、大変な間違いである。それは彼女の肉をけずり、骨をそぎとる精進によって、はじめて達成されたと私は思う。またこの苦しい、だが希望にみちた自己変革のたたかいば、関さんか生きているかぎり、涯しなくつづくであろう。だが彼女は深刻そうに眉をよせないで、あのおっとりとした微笑でさり気なくたたかいつづけてゆくにちがいないのだ。二十人で出発したうたごえ運動が、いまは数十万の人びとをまきこみ、世界にとどろくうたごえとなったのは、こうしたことと無関係ではあるまい。

 うたごえ運動の発展を関鑑子という一個人の達成とみるのは誤っている。それはさまざまの外的な条件によってささえられ、はげまされていることはいうまでもない。だがもしも彼女がいなかったならば、それは一部の人びとのうたごえとはなっても、日本の、そして世界にひびくうたごえとはならなかったにちがいないのだ。

 人間はかわるものであり、またかわりうるものである。これはわたしが関さんから受けとった最大の教訓であった。それはなによりも、人間の発展性と人間の尊厳さを立証するものなのだ。関さんのあの光りかがやく豊かさも若々しさも、決してこのことと無関係ではない。そしてこれをなしとげたものは、なによりも関さんの童女のような素直な心だと私は思うのである。
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2) 美しいプリマドンナ
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1956年4月(知性増刊「日本のうたごえ」)

 関鑑子は明治三十二年、七人きょうだいの長女として東京でうまれた。家は代々郡山藩の江戸詰家老で、鑑子の子供の頃には旧藩主のオヒイさまがよく家へ遊びにきた。オヒイさまは百人一首のお姫様のように十二単衣をきているものと思いこんでいたので、「今日はオネマキでいらしった」といって鑑子は母にわらわれた。
 鑑子の父は維新後、大学予備門(東京大学の前身)で英学をまなび、如来山人と号して読売新聞の美術記者をしていた。わが国の美術評論家の草わけで、岡倉天心、横山大観、川端龍子などと親交かあり、また文壇人とも交友がふかかった。漢籍からの武士的な教養と英学からのヨーロッパ風な自由思想が仲よく彼の頭に同居していたようである。これは漱石、鴎外などにもみうけられる明治の知識人に共通した特色である。したがって家のシツケもきびしく、鑑子は子供の頃から独りを慎む、ウソを絶対につかぬことなどを礼儀作法とともに教えこまれた。

 父は新聞社で相当の高給をもらっていたが理財の才はまるでなかった。タバコをふかして歩く精巧な自動人形を買ってきて、財布の底をハタくような振舞かしばしぱだった。したがって母の前では頭があがらない。鑑子の母は家の切廻わしが巧みで、タンスの物は質に入れても子供たちにはタップリと食べ物をあたえた。しょっちゅう母が米ビツを空にしないように気を配っていたことを鑑子ばいまでもおぼえている。女子は独立した職業をもち、男子に隷属してはならないというのが母の持論で、白本で初めて看護婦の免状をとったほど進んだ考えの人であった。

 そういうわけで、関家は中流の暮しではあったが、父の芸術家気質と酒好きのせいで、蓄財はなかった。だが子供の教育には両親とも費用を惜しまなかったらしい。鑑子ば小学校にはいる前から音楽の個人教授をうけた。母は長唄の名取で、父も声がよかったせいか、彼女は天性宝玉ののように美しい声をもっていた。音楽学校の入学試験のとき少しぱかり間違ったが、声が美しいのと立派な歌いっぷりなので、試験官は間違いに気がつかなかったという。

 鑑子は小学校も女学校も一番で出たが、音楽学校もやはり一番で卒業した。天分や子供の頃からの訓練のせいもあったろうが、第一には他人に数倍する精進の賜物である。その頃鑑子の家は本郷の高台にあったが、近所には大学生の下宿屋が多い。鑑子は学狡から帰ると夜ふけまでピアノや声楽の練習をした。あまり練習がはげしいので、近所の下宿屋から大学生が引っ越してしまう。そこで下宿屋の主人が音楽学校へ苦惰を持ちこみ、お巡りも立合って夜は十二時で練習を打ちきることに相談がまとまった。ところが朝と名がつけぱ何時からでもかまわないというので、彼女は四時におきて歌をうたった。音楽学校を卒業したとき、第一番に御祝いにかけつけたのは、近所の交番のお巡りさんだったという。深夜も早朝も巡回のたびに鑑子め猛練習に接しているのだから、はじめは気違いあつかいにしたとしても、四年のうちにすっかり頭をさげたのであるう。

 下宿人が逃げだすくらいだから、鑑子の家でもさぞかしウルさかったにちがいない。だが音楽の練習については、両親も弟たちも、ひとことも苦情をいわなかった。やりだしたことは、どんなことでも貫かねばならないというのか鑑子の父の持論であった。父は卒業の三ヵ月前に高島屋で一番上等の着物と帯を買ってくれた。

 鑑子は音楽学校では、ヘッツオールド夫人の門下生となった。夫人はマスネーの音楽学校を出て才ペラ歌手として舞台立った人だが、すぐれた音楽教師でもあった。彼女の門下から、立松房子、柳兼子、原信子、武岡鶴代などの有数な歌手が生まれているのをみてもわかるだろう。夫人は特別に鑑子の才能と精進を愛した。そのために弟子のあいだでトラブルがおこることもあったが、鑑子は音楽家の対決は舞合の上だと覚悟をきめていた。私生活でくだらぬ角づきあいするよりも、舞台という土俵で聴衆を前に勝負を決すればよい。そのために精進、ただ精進あるのみであった、きびしい努力のみが天分を花さかせる唯一の道なのである。

 鑑子は音楽学校の演奏会で「椿姫」のアリアをうたった。それが初舞台である。評判は素晴らしく、新聞はソプラノの新星の登場を写真入りで報じた。在学生としては初めてのことであった。つぎの年にはべートーヴェンの「フィデリオ」、卒業演奏にはウェーバーの「オベロン」をうたった。卒業の正月頃から鑑子の家には演奏会の申込みか殺到して、三ヵヵ月後のスケジュールまできまってしまう盛況だった。こうして鑑子は楽壇のプリマドンナとして大正十年、上野音楽学校を華々しい栄光につつまれて卒業したのである。








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3) 社会問題へのアプローチ
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1956年4月(知性増刊「日本のうたごえ」)


■社会問題へのアプローチ

 鑑子が府立第二高女(今の竹早高校)へかよっているとき、校外教授で二葉幼稚園を見学したことがある。二葉は新宿旭町の貧民街にある幼稚園で、園児たちは汚ないボロをきて、サツマ芋をうすめたものを牛乳がわりに飲んでいた。鑑子はおどろいた。自分のうちは子供の天国で、ことに赤ん坊は下にもおかぬほど大事にされる。彼女は初めて貧乏という社会悪の存在を知った。このときの衝撃はやわらかい彼女の心に終生忘れられない黒い影をおとした。

 父が無類の読書家だったので、彼女は子供の頃から手当り次第に父の本をむさぼり続んだ。彼女の愛読書のなかにはツルゲーネフ、ロセッティ、ハイネなど古典から、ジイド、フランス、シンクレアなどの新しい西欧作家の作品があった。日本の小説は身辺雑記的で社会性がないので彼女の興味をひかなかった。まったく体系のない濫読だが、それが今日の彼女の教養を豊かにし、人生を見る目を多彩にしていることはいなめない。

 ことに彼女が心をうたれたものは、トルストイの『復活』であった。早くも十二才で『復活』を読んだ鑑子は、カチューシャと結婚した革命家シモンソンに一番心をひかれた。『革命家とは一生懸命世の中につくして、ついにむくいられないものである』というシモンソンの言葉に心うたれたのである。『日本にも革命家という者がいるだろうか。もしいたらわたしもそんな人と結婚したい』と十二才の少女は心をはずませた。彼女が後に小野宮吉と結婚したのは、このときの気持が二十八才まで変らずつづいていたことを語るものだ。

 音楽学校を卒業して、三年間、彼女は文字通り楽壇の寵児であった。ぎっしり組まれた日程にしたがって、北海道から九州まで演奏旅行にあわただしかった。ワン・ステージ三百円という日本一の出演料が彼女の人気を語っている。その頃の彼女の写真をみると、まるで童話の姫君のように美しい。失礼な言い方もしれないが、美貌のプリマドンナということも彼女の人気を一層高めた要素かもしれない。

 こうした華やかな楽壇生活の余暇に鑑子は東大のセッツルメントで音楽を教えた。ちょうど震災の頃で、時代は大正デモクラシーの開花期であった。デモクラシーの波が日本を洗い、米騒動やロシア革命の余波で、日本の労働運動は二度目の高揚期をむかえていた。そうしたものにうながされて、末広厳太郎、穂積重遠などの東大の教授が本所の貧民街にセッツルメントを建て、労働者の教育と向上に熱心に従事していた。鑑子は東大の学生に頼まれて、そこの幼稚園で一週二回唱歌を教しえた。二葉幼稚園を見学したときの感動がふたたび彼女をとらえたのである。

 セッツルメントの幼稚園には貧弱な才ルガンしかなかった。彼女は園児のためにせめてピアノを備えたいと思い、友達や出身校の女生徒に頼んで寄附をあつめた。薬袋ほどの小袋を沢山こしらえて、そのなかに五銭、十銭の浄財の喜捨を仰ぐのである。こうして四、五百円の金を集めて古ピアノを一台寄附した。この頃のセッツルメントヘきた東大の学生のなかには、この間なくなった服部之総などもいた。東大生にはめずらしいボサッとした面白い男だったので、彼女の記憶に残った。
 あるとき一緒にお茶を飲んだ学生が、「関さん、あなたがセッツルメントで数えるのは慈善のつもりかもしれないが、慈善というものはくだらないものだ。悪い物、汚ない物はそっとしておいて、その上に金や銀の砂をまくのが慈善です。なぜ社会に貧乏が存在するか、それを考えて、貧乏の原因をとり除くのが本当の道だ」と話した。負けずぎらいの鑑子はムッとしたが、この学生の言った言葉はいつまでも心の片すみにつきささっていた。







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4) 結婚の幸福
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1956年4月(知性増刊「日本のうたごえ」)

 
■結婚の幸福

 鑑子は大正十五年、数え年二十八のとき小野宮吉と結婚した。小野の父は福沢諭吉の門下生で三井銀行の重鎮だったが、息子の宮吉は新らしい演劇運動の担い手の一人だった。彼は中学の頃から熱烈なトルストイアンで、ヒューマニズムの立場から次第に新らしい演劇運動へ近づいた。学生時代に演劇の才能をみとめられて小山内薫の築地小劇場にはいり、干田是也とともに築地を脱退して前衛座を結成した。前衛座の旗上げ興行の『解放させられたドンキ・ホーテ』で小野は主役を演じて好評だった。舞台装置は村山知義、演出は佐野碵、俳優は千田や佐々木孝丸など後に日本の左翼演劇を背負って立った一流の顔ぶれであった。民衆に奉仕したいという彼女の希いは、こうして小野によって実を結んだのである。

 鑑子は少女の頃からずい分恋愛や結婚のプロポーズをうけた。その頃の鑑子はまるで小公女のように清潔な美しさだった。プロポーズした一人に三上於菟吉がいる。彼は当時早稲田の学生で、宇野浩二などと同人雑誌をやりながら、家から書画骨董を持ちだして盛んに飲み歩いていた。豆しぽりの帯をしめていたので十六才の鑑子は「イヤらしい」といって断わった。楽壇の明星になってからは、いよいよ男にさわがれたが、結局肺が悪い上に片方の腎臓を摘出した一番条件の悪い小野と結婚したのであった。

 これは後の話だが、あるとき鑑子は千田と結婚した岸輝子と新橋の喫茶店でお茶を飲んだことがある。そのとき彼女は「わたしは千田さんも好きだったけれど、主人にはやはり小野がよいと思ったのよ」と話した。岸は、「わたしもそうなのよ。それで東屋三郎と結婚したんだけど、とうとう別れて千田と一緒になっちゃった」と笑った。鑑子が小野をえらんだのは、彼が高潔で誠実な人柄だったからであろう。

 五年間の婚約の後、鑑子は結婚生活にはいった。小野との生活は十年あまりだったが、そのうち彼は二年半が獄中で、二年は病院に入院していた。結局五年あまりを一緒に暮らしたに適ぎないが、それもお互いに仕事があるので緒婚生活を愉しむ余裕はほとんどなかった。だが彼女自身の言葉からも、また当時を知っている人たちの話をきいても、宮吉と鑑子の結婚は世にもめずらしい至福の生活だったようである。

 鑑子は結婚するときに考えた。人間で一番親しいものは親子兄弟と夫婦である。親子兄弟は天からあたえられたもので、自分が選んだものではない。だが夫は星の数ほどある男の中かから自分の意志で選んだ唯一人の人だ。自分は自分の選択に一生責任をもち、協力して幸福な人世と社会をきずくために決して別れることはすまいと覚悟した。

 筆者は彼女からこのときの気持をきいて感動した。言葉に感動したのではない。彼女のそれからの半生が、文字どおりこの言葉を実現しているからだ。その実行動の重味が、彼女の言葉を美しく裏打ちしているのである。

 小野との結婚前後から彼女は勤労者の音楽の演秦と創造のために働いた。第一回の『無産者の夕べ』で彼女は小野が作詞した歌をうたった。早稲田の学生の音楽会では、鳴りひびくアンコールにこたえて、『くるめくわだち』をうたい、ただそれだけの理由で警視庁へ引っぱられた。彼女がこのような道へつきすすんだのは、小野の思想的影響もあるだろうが、トルストイ的人道主義の当然の発展といってよいだろう。彼女にかぎらず、この年代の日本のヒューマニストたちは、ほとんど同じような経路をあゆんで人民の側に立つようになった。わたしは彼女は何者であるよりも、まず第一にヒューマニストだと信じている。

 幸か不幸か鑑子は音楽学校を卒業して間もなく左のノドにハレモノができた。東大病院で診てもらうと、唾液分泌腺の異常で結石ができる病気だった。子供の頃から余り丈夫ではなかったが、猛烈な声楽の勉強がたたったらしい。夏休みに日光に避暑したとき、彼女は華厳の滝を前にして声量をきたえた。そうした日夜の猛訓練と、多忙な演奏活動が影響したのだろう。このノドの異常が彼女を楽壇生活から遠ざけるとともに、小野との結婚や早稲田の音楽会事件が彼女に赤のレッテルをはりつけた。楽壇はなかなかやかましいところである。彼等は「赤いプリマドンナ」にきびしい閉めだしをくわせたのである。

 その頃から彼女は民族音楽に強い関心をもっていた。そこで彼女はナップの大会に健康な民謡をどりあげることを提議した。だが当時のプロレタリア運動は、民族的なものを一様に反動としてしりぞける傾向があった。それは当時の運動の段階が国際性を重視するあまり、民族性を過小評価したからであろう。彼女の発言は、大会で無複されてしまったのだが、そのとき議長をつとめていたのが夫の宮吉だった。彼女は家に帰ってから一週間ほども宮吉と口をきかなかった。これが夫婦の最初で最後の大喧嘩だったというから、仲むつまじさも想像できるというものだ。









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5) うたごえの誕生
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1956年4月(知性増刊「日本のうたごえ」)

 
■うたごえの誕生

 小野宮吉か亡くなったのは、戦争がおこった昭和十二年だった。鑑子の母はノドの手術をしたときに、そして父は小野の死後二年目に他界した。彼女は一人娘の光子(てるこ)のほかは、最愛の三人に死別したのである。ことに彼女をまったく無私の愛情でつつんだ二人の男性に死なれたことは、非常な打撃であった。彼女は死というものの絶対さ、厳粛さを知った。いままで愛しあい、語りあい、暖かい血が流れていた最愛の生命が、一瞬のうちに机や椅子とかわりない冷めたい物質に一変するのである。この死の冷酷な打撃から立ちあがるためには、彼女は長い歳月を必要とした。だが死が絶対で厳粛なものならば、生もまた絶対で厳粛である。厳粛な生を大切に生きよう。彼女はここから立ちあがった。

 彼女は夫が死ぬと、すぐ間借り生活へかわった。夫のための療養は四百円、そして彼女と娘との生活費は七十円という至れりつくつりの看護であったが、夫の亡い今日、一軒家に住むことも惜しかった。そして蒲田の社会施設を借りうけ、附近の勤労者のために音楽を教えはじめた。蒲田には大工場が多い。彼女の音楽教室には歌のすきな労働者が沢山つめかけた。このなかには戦後彼女か常盤炭坑へ歌をおしえに行ったとき、常盤一帯にうたごえ運動をひろげてくれた労働者もいた。だが戦争は音楽の名に値いする一切の音楽を日本の民衆かちうばいとった。むろん勤労者のための音楽など許されるはずはなかった。彼女のまいたささやかな種子は、戦争の巨大な足にふみにじられたのである。

 戦後、鑑子は若者たちの打ちくだかれた姿に胸をうたれた。東京の街は一面の焼野原であった。その廃墟の街々を復員した若者たちがカーキ色の軍服や国民服をまとってさまよっている。鑑子は着る物を、食べる物を若者たちに差出したいと思った。だが未亡人の彼女に何があろうか。彼女にあるものは音楽けだ。自分は音楽以外に何ひとつあたえる物がないとわかったとき、彼女は打ちひしがれた人びとに音楽をあげようと決心した。こうして戦災にやかれて避難した上北沢の六畳の一室で、歌の集りがはじまったのである。

 五、六人ではじまったうたごえは、たちまちのうちに数十人にびろがった。六畳の室では坐ることもできない。若い娘さんの頭の上へ床の間に積みあげた寝真の山が崩れかかることもある。畳がきれるぐらいはよいが、ネダが落ちては大家さんに相すまない。そのうちどうにも六畳の部屋にははいりきれないので、今の音楽センターの場所にバラックを建てて引き移った。昭和二十三年の夏の頃である。そしてここがまたもや手狭まになったので、全国の歌を愛する人びとから資金を仰いで、現在の音楽センターができあがった。

 自宅でうたの集りをはじめる頃、鑑子は文連や民青で音楽の指導をたのまれた。文連関係で彼女は方々の工場や経営のサークルで歌を教えた。また民青の文化部でも合唱の指導をおこなった。だが文連関係では、ともすれば音楽の中途半端の専門家をつくりかちだ。それは平地に二階家を建てるようなもので、それよりも平地を高台にするのが本当である。また文工隊の場合には、政治工作のため専門家をこしらえることになりかねない。

 こうして彼女はサークル中心のうたごえを働く者の職場全体へ解放するために、また音楽をせまい意味の政治のワクから解き放つために、自主的な中央合唱団をこしらえた。うたごえ運動は国民の、そして音楽以外のどのような団体にも属すべきではない、これが彼女の三十年の音楽運動からうまれた貴重な結論だったのである。


作成(2007/03/17) by bunbun pagetop







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6) 背筋つらぬ<寂しさ
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1956年4月(知性増刊「日本のうたごえ」)

■背筋つらぬ<寂しさ

 うたごえ運動の発展やその批判については、この雑誌で沢山の人が書くはずだ。わたしは関さんを中心にうたごえ運動の内側についてだけ語りたいと思う。

 関さんの部屋は音楽セン・ターの構内にある。センターは四つの教室と裏務所と合唱団の若者たちの寮からなりたっている。日本をおおううたごえの中心とも思えない粗末なバラックだ。ホッペタの赤い娘さん、熱っぽい眼をした若者たちが何十人も、ときには何百人もひしめいていて、建物全体がゴムマリのようにはずんでいる。こうした建物の一角に、関さんのささやかな部屋があるのだ。

 十畳あまりの板ばりの居間、これは狭くるしい寝室へつづいている。寝室がせますぎるせいか、白いペンキを塗った鉄製の寝台が斜めにおいてある。この寝台は小野家のお祖母さんが使ったというから八十年前の代物だ。居間の机の前にはハチャトウリアンに贈られた署名入りの写真がある。そのわきにルノアールの二つの少女の像がかかっている。豊かでみずみずしい色彩のルノアールは関さんが一番好きな画家である。そして二人の少女はあどけないまなざしで、いっも机にかけた関さんを見まもっている。

 机の前は狭い庭、その向うには隣家のヒサシが突きだして陽をさえぎっている。この陽当たりのわるい庭の石コロだらけの焼あとを掘りおこして、関さんは夜店の鉢うえのバラをうえた。鳩山首相が愛好する大輪のアメリカ渡来のバラではないが、春になるとこの雑種のバラは枝もたわわに花をつける。この丈夫なバラは、なにか関さんとうたごえ運動を象徴しているような気がわたしはする。

 この居間と寝室が関さんの個人生活のすべてである。ドアーひとつで教室へつづいているのだから、私生活といってもまったくのガラス張りだ。関さんはまるで往来に寝起きしているようなものである。たえず合唱団の若者たちがここを訪れてくるからだ。御嬢さんの小野光子さんも合唱団の寮の一室に住んでいる。母と子の生活よりも、関さんは若者たちの集団生活のなかに一人娘をおくことをえらんだのだ。

 関さんのように個性のつよいオリジナルな人が、育った風土と環境を異にする人びとと一緒に暮らすのは、なみ大抵のことではあるまい。よほどつよい愛情と意志の力がなければ、半年もつづかず別の場所に生活の拠点をみつけたにちがいない。この人は若々しく童女めいてはいるか、シンのほうにはおそろしく強いものをもっているのだ。そして関さんと若者たちの互いにあたえあい、変革しあう集団の生活が、中央合唱団のうたごえを日本のうたごえにした原動力なのである。

 大変むかしの話だが、関さんは河原崎長十郎と静江夫人の結婚披露宴に出席したことがある。関さんは祝辞を述べるために立ちあがったが、言葉がでずにそのままワッと泣きだしてしまった。別にこの結婚に反対だったわ.けでもなんでもない。それまで静江は大河内信威の夫人だったが、大河内が小野宮吉と同じ豊多摩刑務所につながれているとき、大河内と別れて河原崎と緒婚したのであった。関さんはそのいきさつを知っていたので、河原崎や静江の気持はよくわかっていた。だから反対ではないのだが、いざ祝辞を述べる段になると思わず大声で泣き出したのである。その気持はまことに複雑であるが、ひと言でいえば『人生の悲しみ』とでもいうのだろうか。人間には背筋をつらぬく寂しさがある。関さんはこの背筋をつらぬく生きるものの寂しさをよく識っている人だ。わたしはこれをうたごえ運動と直接むすびつけることはわざとしないが、このような関さんを好きだし、また心から信頼する気持かわいてくる。

 関さんは昨年国際スターリン平和賞をもらった。「スターリン平和賞をもらったのは、とても嬉しいのですが、十年早かったと思います」と関さんはいう。これは謙遜の言葉でもなんでもない。関さんほど、うたごえ運動はこれからだと真から考えている人はあるまい。「うたごえ運動にはまだまだ沢山の弱さや、これから高めなければならない問題があります。だがそうした批判に言葉の上で答えるより、本当によいものをつくりあげて、それをわたしたちの答えにしたいと思います。日本の国民が平和を愛するかぎり、わたしたちのうたごえは絶えないでしょう。平和のないところに、うたごえはないのですから…」

 日本のうたごえは質的なたかまりと、量的なひろがりと、新しい国民の音楽を創造する課題をせおっている。これまで関さんはいくつかの峠をこえてきたが。彼女とうたごえ運動の前には、まだいくつかの急な坂がよこたわっている。関さんはあのゆったりした徴笑をうかべて、ゆっくりと、だが確実に山坂をのぼってゆくだろう。それは真に新しいもの、真に偉大なものへの創造の道である。
作成(2008/01/10) by bunbun pagetop