惜別のうた【Cm】

原詞
作曲
島崎 藤村
藤江 英輔
1: 遠き別れに 耐えかねて
この高楼(たかどの)に登るかな
悲しむなかれ 我が友よ
■旅の衣を ととのえよ

3: 君がさやけき 目の色も
君くれないの くちびるも
君がみどりの 黒髪も
■又いつか見んこの別れ

2: 別れと言えば 昔より
この人の世の 常なるを
流るる水を 眺むれば
■夢はずかしき 涙かな
4: 君の行くべき 山川は
落つる涙に 見えわかず
そでのしぐれの 冬の日に
■君に贈らん 花もがな

4番の歌詞を訂正。(06/03/05)  ▼参照




新おけら歌集(05/01/08) / 楽譜:ビーさん(05/03-18/01)

「惜別の歌」考■
(2006/03/02/8:48) by lunaty
 「惜別の歌」は、四番の歌詞が原曲とは違っています。
これでは、歌の作者の思いが歪められてしまっているとしか思えません。代えたほうがいい理由も、意図(別の意味合いの歌に代えたい)があって代えたのだと言われない限り、わかりません。

■「惜別の歌」の原詩は、島崎藤村の「若菜集」にある「高楼」です。「高楼」は全8節からなっていますが、「惜別の歌」は8節の中から4節を選んだものであり、この4節とは、「高楼」の第一・第二・第五・第七節であるはずです。
 ところが、何故か、4番の歌詞が、あるべき第七節の替わりに第六節が入っているものがあります。(どこでそうなったのかは私には不明です)
 しかし、これでは、歌全体が作者がつくったものと違う歌になってしまうように思えます。
第六節 第七節
君が優しき なぐさめも
君が楽しき 歌声も
君が心の 琴の音も 
またいつか聞かん この別れ
君の行くべき 山川は
落つる涙に 見えわかず
そでのしぐれの 冬の日に
君に贈らん 花もがな

 四番が「高楼」の第七節であることは、『「唄のふるさと」(信濃毎日新聞社編集曲編。1994年11月20日発行)』や『「続・詩歌の待ち伏せ」について(本の話2005年5月号。文芸春秋社)の対談「美しい言葉は時代を超えて甦る」(藤江英輔×北村薫)』における作曲者の話からも明らかです。ただし、本等によっては、歌詞は、三番までで四番をいれていないものもあるようです。例えば
「日本流行歌史」(社会思想社昭和45年9月30日刊)
「戦争と流行歌」(社会思想社、1995年8月30日刊)
「うたごえ1000曲選」

 前記資料では、この歌詞が三番までで四番が載っていないものがあることについては触れられていますが、四番については、第六節で載っているものがあることまでは出てきません。
 因みに、「別冊 1億人の昭和史’79増補版『昭和流行歌史』」(毎日新聞社1979年1月1日発行)掲載の歌詞や、小諸市にある歌碑は、第七節になっています。
 第七節ではなく第六節を採っていることに何か理由があるなら、その理由を特記すべきだと思いますが、そうしたものはないようです。

● 参考までに、作曲者(この歌の作者)が、語っていることを整理すると、以下のとおりです。文章言葉の部分が前者からの、話言葉の部分が後者からの転記です。
 典拠資料
 『「唄のふるさと」(信濃毎日新聞社編集曲編。1994年11月20日発行)』
 『「美しい言葉は時代を超えて甦る」藤江英輔×(北村薫)
      「続・詩歌の待ち伏せ」について(本の話2005年5月号)』

 作曲したのはちょうど六十年前の戦争が終わる直前、昭和二十年の一月頃ですよ。本当に何もなくなってね。(戦争がいちばん悲惨な頃ですね)。
もう絶望的でしたからね。それでも赤紙、つまり召集令状が毎日来ましてね。僕らは東京板橋の陸軍造兵廠[ぞうへいしょう。兵器の製造等を担当する(機関又は)工場]というところに徴用されまして。教室は閉鎖され、あとはもう戦場に発つだけという状況でした。
 陸軍造兵厰[には]東京の[旧制]中学生、女学生もたくさん動員されていた。空襲が激しくなり、仲間にも毎日のように赤紙が来た。控え室に集まっては、明日から居なくなる仲間を、冷えた番茶一杯で送っていた。その時、「この歌、知っていますか」と東京女子高師(現・お茶の水女子大)の学生が「若菜集の「高楼」です」と一編の詩を持ってきた。
 僕が、「高楼」に曲を付けたのは、言葉に出せぬ無言の別れを、無言のままに済ませることが出来なかったからです。軍需工場の勤めには日勤・夜勤が一週間交替であって、夜勤は夜八時から朝の六時までやるんです。

 前夜から大雪が降ったときに、早朝の帰りに雪の中を歩きながら転んで、そのときに「悲しむなかれわが友よ」のメロディが出てきたんです。大雪の日の帰り、突然 わき出したメロディでした。死と隣り合わせになっていた、若い、未熟な、無秩序な願望から生まれたものです。
 造兵廠に勤めていると、下宿などしている学生の住所がわからないので、召集令状が直接工場に届くんですよ、毎日のように。僕はその赤紙を本人に渡す役だったんです。もうそのときは、再び会える別れじゃなくて、「お前の顔を見るのはこれで最後だな」という別れです。冷えた番茶一杯だけで、一滴の酒もない壮行会をやる。それだけで別れるのが辛くて。
 工場で僕が口ずさんでるうちに、みんなに「教えろ」といわれて、口から口へ伝わり、いつしか造兵厰で、出陣学徒を送る歌、惜別の歌になっていた。
 工場で一緒に働いていた他校の中学生・女学生もみんなこの歌を覚えてくれて、戦後、彼らが上の大学に行ったり、地方へ帰ったりして、全国に広がった。
「藤江さんは、次のようにも云っています。] 
 四番の最後が「君に送らん花もがな」。当時は文字通り、一輪の花も無かった。友よ許せ・・・。言葉にならぬ、その思いが四番には、込められているのです。ぜひ、四番まで歌ってほしい。
 今年は敗戦六十年で、靖国問題とか憲法改正とかで騒いでいるときに、「惜別の歌」はこういう状況下でできた歌だという認識を持ってもらいたくて、講演の締めくくりには必ず、五十回に一回でいいから、いや、百回に一回でもいい、そういう時代があったと思い出してくれと話します。そういう願いはあります。

 以上のことどもから、藤江英輔さんがつくった「惜別の歌」の四番は、藤江さんのつくった原曲とは違う意味合いの歌にしたいのだというのであれば別ですが、「高楼」の第六節ではなく第七節でなくてはならないのではないでしょうか。

■相変わらず浅学非才なるbunbunです。lunatyさんのご教示に改めまして感謝申し上げます。ありがとうございました。 <(_ _)>