ロシア民謡-秘宝の玉手箱1
中山英雄氏(合唱団白樺団長・指揮者)

ロシア民謡 おけら歌集 とっぷ

ロシア民謡は今 (1999/04〜05月号)
 編集局から私に与えられたテーマは「ロシア民謡」である。どのようなタイトルで、どのような切り口で対象に迫る文章を書いたらよいのか−それは私に一任されている。そこで考えるのだが、この「ロシア民謡」という、大きなマンモスのような怪物を、ナイフとフォークでまるごと食べてしまうことは不可能だ。その料理法について思案しなくてはなるまい。
「ロシア民謡は人類の宝」_これは作曲家、音楽評論家の只野通泰氏が、最近、合唱団白樺で講演されたときの言葉である。私にももちろん、異論はない。
私のようにロシア民謡を精神的な糧として生活し、育ってきた者にとって、その要素が取り除かれてしまったら、恐らく身も心も空洞になるだろう。切実にそう思う。
ロシア民謡と日本人
 日本人がロシア民謡を知り、広く歌い始めたのは第2次世界大戦後のことであるが、戦前にも少ないながら、その接点と交流はあった。
 古くは江戸後期1800年代前半の、大黒屋光太夫がロシアから持ち帰ったとされる「ソフィアの子守歌」がある。これは有名な民謡「コサックの子守歌」の元歌とされている。今世紀では、まず、1931年にセルゲイ・ジャーロフ指揮のドン・コサック合唱団が、渡米の途中、来日してラジオ放送に出演した。(この合唱団は戦後、56年にも来日。)ついで1940年にはバス歌手フョードル・シャリアピンが来日して、「ヴォルガの舟曳き歌」などを歌い聴衆を魅了した。
 戦前、日本人自身によるロシア民謡の演奏や紹介では次のようなものがある。
 新劇人たちの間では、ゴーリキーの戯曲「どん底」の幕切れに歌われる「どん底の唄」(原題「陽は昇り、また沈み」)が流行したし、プロレタリア音楽家同盟(略称PM)の活動家たちは、ロシアやソビエトの労働歌や革命歌を好んで歌っていた、もっとも、これには大きな政治的、杜会的制約があったのであるが…。また日本の合唱音楽の開拓者の一人であり、関東合唱連盟の名誉会長であった津川主一氏(故人)もロシア民謡の訳詞や編曲で名を残している。その中には「仕事の歌」「行商人」「コサックの子守歌」やワルラーモフ作曲の「赤いサラファン」等が含まれている。
映画「シベリア物語」とロシア民謡「バイカル湖のほとり」
 敗戦後3年目、1948年に封切られたソ連の音楽映画「シベリア物語」は大センセーションをまき起こした。まだ当時は珍しかったカラー映像の、美しいシベリアの大自然とともに、すぱらしいロシア民謡、ロシア音楽の数々は人びとを虜にした、とくに「バイカル湖のほとり」は胸を強くうつものがあり、これが当時のロシア民謡ブームの火付け役になったことは疑いない。
 同年、関鑑子主宰による中央合唱団が誕生し、「日本のうたごえ運動」が開始されたのである。昨年はちょうど、その50周年であった。なお、同じ年に日本合唱連盟も発足している。49年にはソビエトから帰国した人びとが、歌と踊りのアンサンブル「帰還者楽団」(後の音楽舞踊団「カチューシャ」)を結成し、活動を始めた。「トロイカ」「灯(ともしび)」「一週間」などの訳詞が有名だろう。
 50年、ロシア民謡、ソビエト歌曲を専門的に研究、紹介、普及することを目的とした合唱団白樺が誕生。もっとも当初は、当時の日ソ親善協会(後の日ソ楓会、現在の日本ユーラシア協会)の中にあった「ロシア語友の会」の合唱部門「ロシア語合唱団」であり、音楽よりも語学が主体のうたう会的なものであった。「白樺」は来年が50周年である。筆者の入団は1953年5月であった。
ソ連崩壊以後
 「白樺はまだロシア民謡を歌っているんですか」という質問を受けたことがある。私は「まだ」ではなく「むしろこれから」と思っている。これから私たちの運動はますます大切に、ますます面白くなってくるだろう!
ページトップ

誤解されている「ロシア民謡」 (1999/06〜07月号)
 前号でロシア民謡と日本人のかかわり合いについて、戦前から1950年頃までの歴史を概観した。私たち日本人はロシア艮謡を含むロシア音楽やソビエト音楽から、実に多くのものを学び、取り入れ、私たち自身の音楽生活の栄養源にしてきた。その中でたくさんの人びとが、紹介役、パイプ役としての仕事に情熱とエネルギーを注いできた。さまざまな分野の、日露の音楽家、文筆家、語学関係者は言うに及ばず、合唱団や音楽関連企業。ロシア料理店、シベリア抑留体験者、それに国際友好団体などの人々である。私たちは美昧しい御馳走をいっぱいいただいたが、時には気づかぬうちに消化不良を起こし、お腹をこわすことがあったかも知れない。国際文化交流には・多少の誤解や過ちは致し方ないのだろうか。それにしても…。

ロシア民謡ではない「ロシア民謡」
 市販されている楽譜やCD、あるいはテレビ・ラジオの放送で「ロシア民謡(集)」と銘打ったものの中に、驚くほどたくさんのロシア民謡ではないものが含まれている。ちょうど、大きな水の固まりが小さな水滴を引き寄せていくように、ロシア民謡がそれら「否ロシア民謡」を吸収していく現象は、それ自体がロシア民謡の優位性、偉大さの証明なのかも知れない。では、具体例を示そう。
@ ロシア歌謡(ロシア古謡)
・「赤いサラファン」(ツィガーノフ詞・ヴァルラーモフ曲) /「夜のうぐいす」(デーリヴィグ詞・アリャービエフ曲) /「トロイカは運ぶ」(ヴャーゼムスキー詞・ブラーホフ曲)
 いずれも19世紀前半におけるロシアの大ヒットソングである。ロシアの音楽学者アサーフィエフはこの時代を「歌が社会のあらゆる場所を支配している」時代と表現している。歌い広められていくうちに「民謡化」したのだろう。 これらの曲を「ロシア民謡」と呼ぷのは、滝廉太郎の「荒城の月」や、山田耕筰の「赤とんぼ」を日本民謡というのと同じで、正しくはないのだ。
 貴族の夜会での即興的な演奏から生まれた、独特の「ロシア・ロマンス」といわれるジャンルの曲(「君知りて」「私を責めないで」等)やロシア・ジプシー民謡(「黒い瞳」「2つのギター」等)も、厳密にはロシア民謡と区別したいものだ。ジプシーの民族名の正しい呼称は「ロマ」である。
A ソビエト歌曲(ソ連歌曲)
・「カチューシャ」(イサコフスキー詞・プランテル曲)/「」(オシャーニン詞・ノヴィコフ曲) /「モスクワ郊外の夕べ」(マトゥソフスキー詞・ソロヴィヨフ=セドイ曲)
 訳詞の力は絶大で、まるで日本人自身の歌のように愛唱されてきた。 これらを「ロシア民謡」と呼べるなら、「だんご3兄弟」を日本民謡といってもおかしくはないだろう。これらの歌は、ざっと100はあるだろうか。
「道」は1945年の作品だが、日本のある有名劇団が、帝政ロシアを舞台としたミュージカルの劇中音楽に使っていたのを観たことがある。
B 旧ソ連の、ロシアを除く、14の共和国の歌
・「広きドニエプルの嵐」(ウクライナ民謡・シェフチェンコ詞) /「スリコ」(グルジア民謡、A・ツェレテーリ詞・V・ツェレテーリ曲) /「つばめ」(アルメニア民謡、ドルハニャン編曲とマニエヴィチ編曲がある。) /「プーリバ(じゃがいも)」(ペラルーシ民謡・民族舞踊曲)  各共和国を代表する歌たちで、日本でも馴染み深い。
・「百万本のバラ」(ライモンド・パウルス曲)
 バウルスはラトビア共和国の文化大臣だった作曲家で、大統領候補にもなった人。ロシアの歌手、アラ・プガチョーワがヴォズネセンスキーのロシア語詞で歌って、全世界のポピュラー曲となった。なお、この曲の主人公のモデルはグルジアの放浪画家、ニコ・ピロスマニである。ラトビア語の原詞は、ロシア語の歌詞とは意昧が違うようであるが、まさにソピエトならではの歌といえよう。愛唱歌は争い事からではなく、友情の中から生まれる。

音楽交流を友好・平和の力に
 世界の全ての国や民族が、それぞれの音楽・文化の創造と発展を競いあい、交流を深めるならば、人類全体が固い絆で緒ばれて、ひとつの輪(=和)となるだろう。その夢を持ち続けて、その実現のために努力をしたいと、遥かユーゴの大地と空に思いを馳せるこの頃である。
ページトップ

ロシア民謡の誤訳 (1999/08〜09月号)
 日本人がロシア民謡や旧ソ連歌曲等を愛唱するのに、日本語訳詞の役割が大きいことは言をまたない。訳詞という、この大切な仕事に取り組んで来られた方たちには、最大の敬意を表さなくてはならない。しかし、その中で、さまざまな誤訳なども生じている。止むを得ない事情や原因によるものも多いと考えられるが、そのいくつかについて触れてみたい。

誤訳された歌詞
@  NHK総合テレビ「クイズ・日本人の質問」の番組中、「有名なロシア民謡「トロイカ」は悲しいメロデイなのに、何故あんなに楽しい歌詞がついているのですか」という子どもからの素朴な質問があった、この答えは「歌のとりかえ」である。よく歌われる「雪の白樺並木、夕日が映える…」の歌詞(楽団カチューシャ訳)は実は別の歌「トロイカは走り、トロイカは翔ぷ」(ヴャゼムスキー詞・プラーホフ曲)のものであり、恋人に会うためにトロイカを走らせる馭者の喜びの歌である。物悲しいメロデイの民謡「トロイカ」(原題「郵便トロイカは走る」)の本来の詞は、金持ちの地主に恋人を奪われた馭者の嘆き歌である。もっとも同じメロディでも歌い方、特にテンポによって曲調は変化する。「郵便トロイカ…」の邦訳詞も現在は数種類ある。
A  世界中にロシア民謡の美しさを伝えて一世を風靡したドン・コサック合唱団の得意曲のひとつに、これも有名な馭者の歌「鐘の音は単調に鳴り響く」(ロシア民謡・マカロフ作詞)がある。歌い出しは「夕べ告げる鐘の音(ね)もの憂く鳴り渡り…」(合唱団白樺訳)だが、原詞には「夕べ告げる」という言葉は無く、「鐘」も正しくは「鈴」とすべきものだ。(ロシア語の「カラコーリチク」には両方の意味がある。)この歌をV・ソコロフ編曲の混声4部合唱で歌うと、男声パートの音形が鐘の音の模倣に聞こえるのが間違いの原因だったのかも知れない。出版されている楽譜やCDの曲名でも「鐘の音…」のほかに「鈴は同じ音を響かせて」と2種類あり、漢字の字体も若干似ていて、うっかりすると見間違えてしまう。バリトンのヘルマン・プライはこの歌をリーゼマンのドイツ語訳で歌っている。なお、この曲には讃美歌の歌詞もあり、歌詞にはグリリョフの作曲した別のメロディ(短調)もある。
B  もう1曲、これも馭者の歌のジャンルに属する民謡で「果てもなき荒野原」(スーリコフ詞・井上頼豊訳)という美しい抒情歌がある。この訳詞の第4節「わが馬よ運びゆけ、わが思いをちちははに」は適切ではなく、雪の荒野で行き倒れる馭者が、妻や父母への遺言を愛馬に託す歌と永年誤解されてきた。正しくは馬ではなく友人である。テレビ・コマーシャルで犬が登場し、人間の言葉で「そんなこと言われたって、ぼく犬だからねえ」というのがあったのを連想してしまう。
C  「バイカル湖のほとり」(原題「さすらい人」)はデカプリスト(12月党員)の流刑囚の歌で、映画「シベリア物語」封切後盛んに歌われた。その歌詞の第2節「たたかい破れて、つながれしひとやを…」(中央合唱団訳)は誤訳ではないのだが、その中で「ひとや」という言葉がしばしば誤解される。これは「獄」または「人屋」と書かれ「牢屋、監獄」を意味するが、「ひと夜」と勘違いされることが多い。ビデオ「シベリア物語」(完全ノーカット版)の字幕にも同様の誤記がある。合唱団白樺では原詞(9節まである)の直訳に近い大胡敏夫訳で歌い、この秋出版予定のCDにも収録の見通しである。

意訳と作詞
 明治以後に音楽教育で使われた唱歌の多くは、外国の曲に原詞の意昧とは無関係な日本語詞を当てはめたものである。(例:「蛍の光」「故郷の空」)
また、楽曲のあるフレーズないしは、いくつかの音符に付けられる言葉の数を、外国語と日本語とで比較すると、前者が後者よりも遥かに多いのが普通である。従って外国の曲に日本語の訳詞を当てる際には、直訳に近づけるのは困難で、意訳せざるを得ない場合が多々あるのである。
 原曲の内容を意図的に変えてしまった歌詞も無いわけではない−というよりも、むしろ沢山あるといえるだろう。アメリカ民謡「線路の仕事」は重労働の末、息絶える線路工夫の歌であるが、同じ曲が「線路はつづくよどこまでも」(佐木敏作詞)では、楽しい汽車旅行の歌になっている。そうした例はロシア民謡などにもある。
 「ヴォルガの舟曳き歌」→「雁の叫び」(旗野十一郎作詞)
 「あ丶、わが運命」→「燃えろペチカ」(緒園涼子作詞)
 「赤いサラファン」→「夜の窓辺に」(同上)
 「黒い瞳」(ロマ民謡)→「黒い瞳」(中村千恵子作詞・岩河三郎編曲)−「黒い瞳」は曲名は同じでも内容的には大きな隔たりがある。
ページトップ